現実を受け入れるということ

何か気に入らないことがある時、取れる行動には2つの選択肢があります。ひとつは現実変えようとすること、そしてもうひとつは現実を受け入れることです。ただし、選択肢として後者しかない場合もあります。
現実を受け入れるということ

最後の更新: 15 11月, 2020

何か気に入らないことがあったとき、その対応の仕方にはさまざまなものがあります。ついてないとグチを言ったり、いやだと思うことを変えようとしたり、現実を受け入れてそれに対処することで、それが常に頭の中に居座らないようにすることもできます。また、その問題について話したり無視することもあるかもしれません。あるいは、思考の中に取り入れる、問題について口にする人を避けるという選択肢もあります。しかし、最終的には現実を受け入れなければなりません。結局はそれ以外に方法がない場合も多々あります。

言い換えると、あなたがその現実を好もうと好むまいと、その存在は続くのです。健康の害になることを避けたいのであれば、その現実を受け入れそこから学ぶしかありません。もうすでに実践している方もいるかもしれませんが、人と接する時、必ずしも自分は好きではないような変わった点を受け入れる必要がでてきます。

現実 受け入れる

不完全さ

完璧で理想的な日には、自分のミスをラッキーだとも思うでしょう。実際、ミスをしなければ学ぶことも前に進むこともできません。昨日の失敗が今日を輝かせるのです。

これは響きはとてもいいでしょう。しかし、自分の忘れっぽさに怒りを覚えることはありませんか? 自分のうっかりで割ってしまったコップも少なくないでしょう。また、距離を見間違えて車を後ろにぶつけたことはありませんか。あるいは、病院の予約を1週間間違えたことがある人もいるでしょう…このような状況で、どんなに自分に怒りを覚えるか、フラストレーションを抱え、そこにどれほどの時間やエネルギーを費やすかは関係ありません。私達は残りの人生でも、くだらないミスをし続けます。これは大きな人生の教訓を学ぶこととは違います。これらは単に起こってしまうことであり、その現実を受け入れなければならないのです。

期待

思い描いたように物事が進むことはほとんどありません。どんなに備えていも、予期せぬ状況すべてに対処することは不可能です。起こりうることのリストを作ったとしたら、最後は必ず「など」と書くことになるでしょう。

これは無駄なことです。現実を避けたいために、過度に用心深くなったり、それにとらわれすぎてはいけません。多くの物事は予期できないものです。常に何かに備えようとするのは非常に難しい重荷になります。動いて変化すべき場で、うろうろしたりゆっくり動くことになってしまうのです。同様に、永久は例外であり、規則ではないということを私達は人間の歴史から学んできました。

また、第一印象や先入観(ハロー効果)を止めることは不可能であるように、期待をすべて捨てることはできません。期待は、自己効力感や注意力をコントロールする力など重要な精神の様々な要素を条件づけます。

現実ではなく自分の知覚を鍛える

彫像は醜いものではありません。人は誠実でも嘘つきでもありません。ある一定の行動をとることが多いかもしれませんが、常にそうであるというわけではありません。実際、誰もが時々そうなりますが、これは自己中心性や二面性を意味するものではないのです。

画面にある画像を見た時、2つの地点が近くにあるか遠くにあるかは、それをズームで見るかによります。例えば、ロンドンとケンブリッジは近いとも遠いとも言うことができます。

地理に関しては、私とあなたは同じ基準点を用いて絶対値を出し、自由な意見を持つことができます。しかし、この考え方を心理の世界に持っていくと問題が生じます。例えば、ロンドンとケンブリッジが常に動いていたとすると、2つ地点の距離は常に異なります。

では、基準値には何を使ったらいいでしょう? ここでの基準点は、その時画面に映し出されるものしかないでしょう。なぜこうなるのでしょうか? それは、自分の視点のみを用い、その瞬間に得られた情報のみを使った方が簡単なためです。つまり、 360度レンズの動画が欲しい時、私達は静止画を使おうとする傾向があります。しかしこれは不可能であり、現実を受け入れる必要性を表す一例です。

現実 受け入れる

人は物忘れをするもの。それを受け入れること

のどまで出かかっている…ある言葉を思い出そうとすることは島のようです。場所は分かっているのに、そのきれいなビーチにつながる橋が見つけられない状態なのです。意味、最後に使った時、言葉の最初や最後の文字など分かっているのに、言葉が思い出せません。

列に並んでいる人を見て、一緒の学校にいた人だと気づきます。しかし、名前が思い出せません。横の席の子の名前は覚えているし、数学の先生がいつもその人の名前を呼んでいました。ここでも、少々無秩序な記憶の働きという現実を受け入れなければならないのです。

ここまでで挙げたのは、受け入れるべき現実のほんの数例でしかありません。こういったことがが起こると、イライラしてしまうでしょう。あなたはどれに共感しましたか?その理由はなぜでしょう?


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