ジュール・ヴェルヌ:人生の驚異の旅

13 5月, 2020
19世紀の人間が未来の発明品をそれほど詳細に想像できたのはどうしてでしょうか?文学の真の巨匠、ジュール・ヴェルヌについてご紹介します。

ジュール・ヴェルヌという名は多くの人が耳にしたことがあるでしょう。ヴェルヌの素晴らしい冒険小説に没頭するのは魅力的です。また、19世紀の人間が未来の発見や発明を予想できたというのも驚くべきことです。ヴェルヌは、自身の作品において工学、科学、文学を見事に融合させました。彼は時代の先を行く人間だったのです。

まだ潜水艦がファンタジーでしかなく、電気モニターは存在すらしなかった頃、ヴェルヌは緻密に作り上げられた潜水艦、ノーチラス号を創作しました。

ジュール・ヴェルヌは、自身の発明品のあらゆる詳細を文学作品の中に記録しました。細部まで事細かに書き連ね、機械がどう動くのかを説明しました。当時の最先端の科学や技術を作品に取り入れたりもしました。

ヴェルヌは科学を文学作品に用いることで、旅の物語というジャンルを全く新しいものに変えたのです。彼は文学界でも鍵となる人物でしたが、科学の世界においても革命的な存在でした。

ジュール・ヴェルヌの若年期

ジュール・ガブリエル・ヴェルヌは1828年、フランスの都市ナントの中流階級の家庭に生まれ、平穏で快適な子ども時代を過ごしました。彼の父親は弁護士として成功しており、ヴェルヌは幼い頃から旅行することができました。

ヴェルヌがまだ子供の頃、水夫見習いになるべく家出をして、インド行きの帆船に乗り込んだという逸話もあります。これが実話であるという証拠はありませんが、事実であると信じる人は少なくありません。しかし出発の前に父に見つかり、ヴェルヌはもう想像の中でしか旅をしないと誓ったとも言われています。

彼がこの誓いを忘れなかったからこそ、世代を超えた読者たちが彼の作品を楽しんできたのです。

1848年、革命の最中に、ヴェルヌは法律を学ぶためパリへ移ります。学費は父が払っていたとはいえ、彼の暮らしは随分厳しいものでした。

ヴェルヌは常々、肉体よりも精神を養うほうが大切なのだと確信を持っていました。予算のほとんどを本に費やし、パンと牛乳のみで暮らすことも多かったのはそのためです。この窮乏生活の結果、彼は健康に恵まれることがありませんでした。このようにお金の問題はありましたが、この頃の若きヴェルヌはかなり幸福だったようです

彼がパリの文学界においてアレクサンドル・デュマに出会ったのはこの時期です。ヴェルヌとデュマの友情は深まり、デュマやヴィクトル・ユゴーなどの作家はヴェルヌの文学の道に影響を与えました。

ジュール・ヴェルヌの家庭生活

1850年、ヴェルヌは法律の学位を取りました。しかし、父の望みに反し、ヴェルヌは文学の道に進むことを決意しました。そして1856年、オノリーヌ・ドゥヴィアヌと出会い、1857年に結婚します。

父との関係は拗れていましたが、父は結婚資金として5万フランを彼に与えています。ヴェルヌと妻はパリに居を構え、彼は株式仲買人の仕事を得ました。この仕事で成功することはありませんでしたが、だからこそ彼が他の職業に向いているということが明らかになったのです。

ヴェルヌはこの結婚生活に精神的な安定を見出すことができませんでした彼はいつも妻に苛立ち、旅行に出かけることで出来る限り家から逃げ出そうとするようになりました。1861年、彼の一人息子が誕生します。ミシェル・ヴェルヌは難しい子どもでした。ヴェルヌ自身が息子を少年院に、後には精神病院に送り込んでおり、これが少なからず親子関係に影響を与えました。

58歳の頃、ヴェルヌは甥ガストンによって脚を拳銃で撃たれました。生き延びはしたものの、この事件によってヴェルヌの脚には障害が残りました。このときに具体的に何が起こったのかは、未だに明らかにはなっていません。表面上は良い関係を築いているように見えましたが、ガストンは事件の後に精神病院へと送られています。

ジュール・ヴェルヌ

人生の驚異の旅

ジュール・ヴェルヌの作家としての前半期は1862年に始まり、1886年に終わります。1862年9月彼は編集者ピエール=ジュール・エッツェルに出会い、『驚異の旅』シリーズの第一作目、『気球に乗って五週間』(1863)が出版されました。

この作品が大ヒットしたことから、エッツェルはヴェルヌに長期契約をオファーします。ヴェルヌはSFものの物語をさらに創作することになりました。こうして、ヴェルヌは自分の最も得意とする仕事で生計を立て、フルタイムの作家となったのです。

ヴェルヌとエッツェルの職業上の関係はとても実りが多く、40年も続きました。これは文学の歴史上、最も生産的で成功したパートナーシップの一つです。この40年間に、ヴェルヌは『驚異の旅』シリーズの全ての作品を書き上げました。

これまでの旅行の物語を全く新しいものに作り替え、冒険ものやSFなど、他のジャンルにも多大な貢献をしました。『驚異の旅』は空想的な小説シリーズです。この作品群のユニークな特徴といえば、丹念に研究し尽くされ、科学や地理のデータによって裏付けられているという点です。

「この世界のほとんどのものを測ることができるのは周知の事実だが、人類の野心の限界だけは測ることができない!」

―ジュール・ヴェルヌ―

『驚異の旅』シリーズの54作の小説には、『地底旅行』、『月世界旅行』、『海底二万里』、『八十日間世界一周』、『神秘の島』などがあります。

1886年になる頃には、ヴェルヌはささやかな財産を築き、世界中でその名が知られるようになりました。何艇ものヨットを購入し、ヨーロッパの各地へと航海しました。また、彼の小説のうちいくつかを舞台化する上での共同制作も行いました。

ジュール・ヴェルヌ

ヴェルヌの落日と死後の作品

1886年から1905年に彼が亡くなるまでの後半期の作品では、彼の作風はがらりと変化しました。彼の特徴的なスタイルから、自ら距離を置き始めたのです。彼の小説には、科学の進歩や、冒険や探検があまり登場しなくなりました。

新しい技術を推し進める傲慢な科学者たちの危険性に焦点が当てられるようになったのです。彼は悲観的な調子を用いて、科学の進歩のもたらす結末に警鐘を鳴らしました

この時期の代表作には、『地軸変更計画』 (1889)、『動く人工島』(1895)、『悪魔の発明』(1896)、『世界の支配者』(1904)などがあります。この作風の変化は、彼の私生活における不幸とも一致します。ヴェルヌは、母親と、メンターであるエッツェルの死によって深く影響を受けました。ジュール・ヴェルヌが亡くなったときには、未編集の原稿が大量に残されていたそうです。

彼の死後の作品は1905年から1919年にかけて出版されました。これらの作品は、息子ミシェルによって大きく手が加えられています。代表作として、『黄金の火山』(1906)、『トンプソン旅行代理店』 (1907)、『ドナウ川の水先案内人』(1908)、『〈ジョナサン号〉の遭難者』(1909)などが挙げられます。

こういった死後の作品の問題点は、それらが出版されるまでにヴェルヌの作風がよく知れ渡っていることです。批評家は、これらの小説は他人の手が加えられすぎていると文句を言いました。ミシェルの編集によって、ヴェルヌの特徴的なスタイルが細工されすぎていたのです。そのため、これらの小説の評判はあまり芳しいものではありませんでした。

ジュール・ヴェルヌ

ジュール・ヴェルヌ、文学と科学の幻想

ジュール・ヴェルヌは現代SFの父と称されています。彼には教育と科学への貢献を賞して、レジオンドヌール勲章が授けられました。

「あらゆる不可能は、可能にされるべく残っている」

―ジュール・ヴェルヌ―

ヴェルヌは世界で最も翻訳されている著者の一人であり、これが彼の人気を証明しています。彼の作品の中には、舞台化や映画化が行われたものさえあります。小説中のディティール、旅、創造力、革新、これらが彼の作品の特徴です。

ジュール・ヴェルヌは、文学、舞台、映画、そして科学や技術にまでもその爪痕を残しました。世代を超えた科学者や、発明家、冒険家たちが、彼の小説に感化されているのです。これらの素晴らしい作品と、その魅力的な生みの親は、「人が想像できるものはなんでも、人類が実現させることができる」ということをいつまでも思い出させてくれるでしょう。

  • Costello, P. (1996) Jules Verne: Inventor of Science Fiction. Londres: Hodder and Stoughton.
  • Evans, I. O. (1966) Jules Verne, and His Work. New York: Twayne.
  • Lottman, H. (1996) Jules Verne: An Exploratory Biography. New York: St. Martin’s Press.