ハンナ・アーレント:多元主義思想家

ハンナ・アーレントはドイツ人出身ユダヤ人だとして迫害を受けました。長年の間、母国がない状態でした。彼女は多元主義思想家になったのも、その経験があったからでしょう。
ハンナ・アーレント:多元主義思想家
Gema Sánchez Cuevas

によって書かれ、確認されています。 心理学者 Gema Sánchez Cuevas.

最後の更新: 16 11月, 2019

ハンナ・アーレントは20世紀の偉大な思想家の一人です。彼女のことを「哲学者」と呼ぶ人もいますが、彼女はそう呼ばれることを好みませんでした。おそらく幅広い興味を持っていた彼女にとって、「哲学者」という言葉は確定的で、限界を作られるような言葉だったのでしょう

ハンナ・アーレントは、「ユダヤについて」の分野で特に偉大な成果を残した思想家といっても過言ではないでしょう。彼女自身ユダヤ人であったにも関わらず、この分野ついて、深く、批判的なアプローチで挑みました。

「どれだけ過激な革命でも、革命後は保守的な考えとなってしまう。」

―ハンナ・アーレント―

彼女の著書である「全体主義の起源」は模範的な政治理論の一つです。その中で、彼女は反ユダヤ主義、人種差別、帝国主義の歴史的発展について書いています。最後に、彼女は「完璧な支配」とは何かを、ナチズムとスターリン主義を基に説明しています。

若く聡明な女性

ハンナ・アーレントは1906年当時のドイツ帝国ケーニヒスベルクで生まれました。彼女の家族は、のちのロシアの一部となるプルシア地域のリンデンからやってきたユダヤ人でした

アーレントの父はエンジニアでしたが、彼女が7歳の時に梅毒によってこの世を去りました。彼女の母のマルタは、自由主義的な考えをもつ人物で、その当時男性が得ていたのと同じ教育を自分の娘に受けさせたいと考えていました。

ハンナは幼い頃から、高い知的能力と反抗的な面をみせていたと言われています。14歳の頃には、エマニュエル・カントや、カール・ヤスパースなどの本を読んでいたとも言われています。しかし、17歳の時に「校則に反した」として、放校処分を受けます。

その後、ハンナはベルリンに引っ越し、理論学と哲学を勉強します。独学したのち、マールブルク大学の入学試験に18歳で合格します。

ハンナ・アーレントユダヤ人の思想家

ハンナ・アーレント

大学で人気のあった教授であるマルティン・ハイデッガーと出会い、恋に落ちます。彼は既婚者で、2人の子供があったため、不倫関係になります。しかし、この状況がハンナにとって辛くなったため、次の学期にフライブルト大学へと移ります。

そこで、1928年、エトムント・フッサールの授業をとった後、彼女は哲学の博士号を取得します。カール・ヤスパースは彼女の論文のアドバイザーで、のちに親友となりました。この時期に彼女は、他の著名な哲学者たちとも親交を深めています。

反スターリン主義の活動が徐々に大きくなり、ナチズムが革新的に成長していた時期、ハンナ・アーレントは自分の家を、子供と若者の亡命を手助けするために使用していました。1933年、彼女はゲシュタポに逮捕され、8日間拘留されました。その後彼女一人目の夫であるギュンター・シュテルンと出会うことになる、フランスへ亡命しました。

国籍のない思想家

ハンナ・アーレントはナチズムに徹底的に反抗した、数少ないヨーロッパの思想家の一人です。彼女は1939年に母親をドイツから脱出させることに成功します。1940年には、ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚しますが、その後、彼女はドイツ人でなかったのにも関わらず、ドイツ人が収容されていたフランスの収容所へ送還されます。そこから逃げることに成功した彼女は、夫と母親と共にアメリカ合衆国へと亡命しました。

アメリカでは、ヨーロッパでの経験を生かして、ジャーナリストとして働きます。1951年、アメリカ合衆国の市民権を獲得しますが、心は言語と芸術、詩によってドイツと繋がっていると言っていたようです

才能溢れる足跡を残したハンナ・アーレント

アメリカ市民権を得て、国籍のない状態から「解放」された彼女は、市民権があるということは「権利を持つ権利」を得るということであると述べました。そして、アメリカでキャリアを積み、素晴らしい作品を残しました。

1961年には、ザ・ニューヨーカーの記者として働き、ナチス戦争犯罪者である、アドルフ・アイヒマンの裁判について書きました。記事には「悪の陳腐さ」と題名がつけられ、議論を呼びました。

1959年、彼女は女性として初めて、プリンストン大学の教授となります。1963年には、シカゴ大学の教授にもなり、その他の大学でも教鞭を執るようになります。

彼女が愛した夫は、1970年にこの世を去ります。4年後ハンナは心臓発作に襲われますが、助かります。その後も仕事を続けますが、1975年、学術に関するミーティング中に2回目の心臓発作に襲われこの世を去りました。


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  • Arendt, H. (2005). Arendt sobre Arendt. H. Arendt, De la historia a la acción. Buenos Aires: Paidós.

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