悲しみに自分をコントロールさせない
朝、悲しくて目が覚めました。それが、自分の周りで起きていることに対する不安、想像、勘違いからきているのかも分かりません。分かっているのは、自分が悲しみに襲われていることです。悲しみは私に取り付いて、自分の中に根を張っています。幸せのある人生がすべての社会において、これは犯罪とも捉えられます。
悲しみの奥にいるのは自分です!悲しみの居場所を作っているのも自分です。自分が自分でいられなくるような感情を知っているのも自分です。もしこの感情が自分にブレーキをかけなかったら、もし、コントロールできたなら、もし、本当の自分でいられるなら…。
自分の真髄が悲しみに切り裂かれないようにしましょう。苦しみに振り回されないようにしましょう。自分がいてこそ、悲しみは存在するのです。悲しみが自分の中に、心の中にあっても、戦い続けましょう。もしその感情が大事なことを伝えようとしているなら、耳を傾けましょう。そうでなければ、ただそこに存在させましょう。力を持つのは自分なのです。
悲しいけれど、それも自分
人は、決まった結果が用意されたゲームではありません。黒と白が共存するキャンバスです。悲しみは、一時的な感情であり、自分の行動をコントロールし、どこかへ導いてくれるのであれば、それに従うことも間違いではありません。それでも、自分のアイデンティティが最優先です。面白いことに、悲しみが新たな何かを学ぶ機会になることもあります。一人になり、冷たく静かな場所に留まることがあります。それは、自分に耳を傾けるためです。物事を理解し、成長するにはそうすることが必要な時もあるのです。
悲しい時、何かを決めることはしません。しかし、この思いから学んだことを心に留めて、もう少し勇気が出た時のために役立てます。悲しみが教えてくれることは多く、貴重なもので、それを忘れたり、失くしたくありません。
悲しみを認めよう
私は悲しみを認めます。生きている間、その感情を受け止めて適切な居場所を与えます。妨害はしたくありません。自分の感情をいじめたくはありません。自分の感情は自分の中で生まれ、育まれています。感情にとって自分は重要な存在で、自分がいなければ感情は存在しません。その代わり、私の感情は自分の存在に気づかせてくれます。
時間をかけ、何が起こるか待ってみます。悲しみにしがみついたり、自分が転ぶ結果になったとしても、悲しみから生まれるものを見てみたいのです。今私が感じているのは、自分は昔とは違う人間だということです。悲しみは、自分が本当に感じていることと繋がるきっかけとなる貴重な時間なのです。
自然と悲しくなる時があります。そんな時、あらゆる部分から創造性が流れだします。痛みが大きければ大きいほど、私は人として成長します。それは、周りの期待ではなく、自分の内からくる感情が私を支えるからです。
悲しみに止められることなく、自分の価値のために戦う
私の信念が私のコンパスです。それ以外のものは、進んでいく中で見つけていけば良いのです。その中で、親切さと無知を、誠実さと横柄さを、悲しみと弱さを勘違いする人にも会うでしょう。ただ、これらは自分の目標を目指す邪魔にはなりません。むしろ自分の価値を見直させてくれます。
「痛みや苦悩は、賢く大きな心の持ち主が避けることができないものである。偉大な人は、深い悲しみを背負っていると私は思う。」
-フョードル・ドストエフスキー-
日々、一歩ずつ前へ向けて進みます。悲しみでどこにもたどり着かない日もあります。ただ風のように感じる日もあります。速く進みすぎ、あまり学べない日もあります。
それでも、純粋な喜びの中で、悲しみが人生を豊かにすることに気づく日があります。悲しみが根を張り、自分に、水を求め、世話をし、成長させるように言うのです。そして、庭の持ち主が丁寧に世話をするときに限り、この悲しみと喜びが繊細に混じり合い、人生で最も美しい庭ができるのです。