辛抱強さや精神の平穏にまつわる仏教の逸話
私たちには、全てを即座に欲し、物事を性急に行ってしまうという悪い癖があります。辛抱強く待つよりも、自らの決断を変えてでもすぐに結果を得る方を選ぶのです。努力するよりも途中で諦めてしまう人の方が多いようです。しかし、この仏教の逸話が辛抱強さや精神の平穏の重要さを教えてくれますよ。
欲求を満たすのが先延ばしになったり、待たなくてはならない状況に陥ると、人は大抵イライラしてしまいます。実際に、待たなくてはならないことがわかっていると、脳は私たちの心を懸念と期待でいっぱいにしてしまうのです。特に、待たなければならない時間を早回しさせるために脳はこのような行動をとります。
結果として、私たちは高速ペースの生活を送っており、心の中にも外部にも気をそらさせるようなものがたくさんある状態になっています。私たちは一つの場所から別の場所へ、即座に満足が得られそうな道以外の方向には目もくれずに移ります。そしてそこには内なる声のざわめきも加わります。それは、心配事が自分たちのする全てのことに現れ出てしまうからです。まるで、中毒患者かのようにも思えます。私たちは考え過ぎてしまうせいでそこから仮説をたててしまい、自分の思い込みという名の迷宮に囚われ、悪循環に陥ってしまうのです。
しかし、私たちはどうやら最も重要なことから目を背けてしまっているようです。それは、この自らに課したトラップからどう抜け出すかということです。どうすればこの精神的なトラップから脱出できるのでしょうか?この仏教の逸話に従えば、その答えを得ることができるかもしれません。
“脳は、正しく使いこなせば優れた機器となります。しかし使い方を誤れば、たちまち有害なものになってしまいます。正確に言えば、人が自分の脳を不適切に使っているというよりは、そもそも私たちは脳を使ってなどいないのです。脳がその人を使っていることになり、これが全ての元凶なのです。人は自分と自らの脳を同一視していますが、これこそ錯覚です。人間は、この機器に主導権を奪われています。”
仏教の逸話
旅に出る決断をしたブッダとその弟子たちですが、その道中では様々な領地や都市を越えねばなりません。ある日、彼らは遠くの方に湖が見えるのを発見しました。彼らは喉が渇いていたので、そこで立ち止まることにしました。一行が湖に到着すると、ブッダは、最も我慢ができない最年少の弟子に対して言いました。「私は喉がカラカラだ。私のために湖から水を汲んできてくれるか?」
この弟子は湖へ向かいますが、たどり着いてみると牛に引かれた貨車が湖を渡っていました。少しずつ、水は濁り始めます。そしてこの弟子は考えました、「こんな泥水を先生に飲ませるわけにはいかない」と。そこで、彼は一行の元へ戻り、ブッダにこう伝えます、「水はとても濁っています。飲めるとは思えません」。
それから約30分後、ブッダはその弟子に再び湖へ行って飲み水を汲んでくるよう命じます。しかし、水はまだ濁っていました。弟子は湖から戻ってくるとブッダに言いました。「あの水は飲めませんよ。街まで歩いて何か飲めるものを手に入れましょう」。
ブッダは彼に何も答えませんでした。けれど、行動を起こすこともなく、ただそこにじっとしていました。しばらくしてからブッダは再びこの弟子に湖へ戻って水を汲んでくるよう頼みます。彼は師匠に反抗する気はなかったので、湖へ向かいます。とは言え、なぜ再び湖へ行くよう命じられたのか理解できず、彼は憤慨していました。水は濁っていたのだから飲めるはずはないのに。
弟子が湖に着くと、水はかなり透明になっていました。そこで彼は水を汲み、ブッダの元へ持ち帰ります。ブッダは水を見て弟子に対して言いました、「水を綺麗にするために君は何をしたんだ?」弟子にはその質問の意味が理解できません。彼が何もしていないことは明らかでした。
ブッダは彼を見て説明します、「君は待ち、湖をなすがままにした。だから泥は自然におさまって水は綺麗になったのだ。君の心もそれと同じだ!濁っている時には、そのまま放置しておかなければならない。少し時間を与えてやるのだ。我慢できなくなってはいけない。そうではなく、辛抱強く待つのだ。自然にバランスを取り戻すはずだよ。心の濁りを落ち着かせるために、特になんの努力をする必要もないのだ。そこに固執しないようにさえすれば、全ては自ずと丸く収まるのだよ。」と。
心を鎮めるための辛抱強さという技術
この仏教の逸話のカギとなるのは、辛抱強さです。待つということ、時間に敬意を払うということ、そして来たるべき時が来るまで一旦立ち止まることの大切さについての話なのです。これは、思考に関して特に言えることです。実際に、自分自身が手に負えなくなってくればくるほど、思考の絡まりが大きくなってしまう前に考えるのをやめることがより大切になってきます。
何もせず時間を与え、ただ待機することは、乱された心を鎮めるための優れた手段です。実は仏教徒たちは、疲れ果てて混乱してしまうまで思考から思考へ慌てて移りゆくような心を’モンキーマインド(猿の心)’と読んでいます。
もし我慢弱さや怒り、ストレスあるいは不満に気を散らされてしまうと、性急な決断を下す羽目になってしまいます。従って、一息入れるために数分間の余裕を持った方が良いのです。起こってしまった事象から感情的に自分を切り離し、自分自身との対話を試みましょう。そうして初めて、先ほどの仏教の逸話の最後のような精神の平穏が得られるのです。
時には、行動を起こしたりすぐさま何か対策を取ることが最善策とは言えないこともあります。むしろ、冷静になって焦りやその場の快楽のせいで気が紛れないようにすることが大切な場合があります。言い換えると、心の水の動きを鎮め必要な分だけ待ってやらねばならないのです。心を鎮めて精神的な平穏が得られれば、感情は思考と調和するはずだからです。これにより、違った考え方や観点を得ることができるようになります。
“それは、単純に静かに腰掛けていて、思考を眺め、あなたの面前を通り過ぎて行くのだ。ただ眺めるだけで、干渉したり判断したりしてはならない、なぜなら判断を下した瞬間に純粋に眺めているだけではなくなってしまうからだ。「これは良い、これは悪い」などと言い始めた瞬間に、すでにその思考プロセスに飛びついているということなのだ”
–和尚–