素晴らしきかな、人生:愛する人の死と向き合うこと
「素晴らしきかな、人生」は、デイヴィッド・フランケル監督の2016年公開の映画です。待望の映画はキャスティングも素晴らしいものでした。エドワード・ノートン、ケイト・ウィンスレット、ヘレン・ミレン、ウィル・スミス、キーラ・ナイトレイなど有名な俳優が多数出演しています。しかし多くの期待と豪華な俳優陣にもかかわらず、ほとんどのレビューはネガティブなものだったのです。
批評家の視点からは、この映画は単なるメロドラマになってしまったとしています。お涙頂戴の流れと、できるだけ感動させるような会話の詰め合わせだというのです。それも薄っぺらい表面だけのものになっていると言っています。
「素晴らしきかな、人生」には、とても興味深いテーマがありますが、感激性を極端に強要するものになってしまっています。それは信じるのが難しく、ハリウッド感が強すぎるのです。ニューヨークの休日という背景もまたそれを助長しています。家族と一緒にテレビで観るクリスマス映画という感じなのです。
しかしアイディアとしては面白く、明らかにディケンズの「クリスマス・キャロル」の影響を受けています。そんなこの映画は、とても成功している男が、6歳の娘を亡くした後深く落ち込んでしまう物語です。
彼の同僚と友達が、3人の役者を雇い、彼の人生に現れることで彼を助けようとします。役者たちは、ある3つのあやふやな概念の役をすることになっていました。それは愛、死、そして時間です。映画のこの部分は、人生を表す寓話となっています。それはまるで、うつに伴って私たちが直面する恐れを表しているようなのです。
映画の甘ったるい所や先が予測できるプロット、すべてが明らかに不自然であるという点はひとまず置いておきましょう。そうすると、「素晴らしきかな、人生」は、実はとても悲劇的な状況についての話なのです。
ですので、この記事では批判の集まっているところには焦点を当てません。そうではなく、この映画のメッセージとそれから得られる心理学的な教訓について見ていこうと思います。
素晴らしきかな、人生における死
この映画は、ウィル・スミス演じるハワード・インレットによるモチベーションを上げるようなスピーチから始まります。彼は広告産業において最も成功している人物の一人です。スピーチの中で、彼はすべての人間をつなげるものには3つのものがあると話します。それは、愛、時間、そして死です。ある時点では、「私たちは愛を求め、もっと時間があればと思い、そして死を恐れるのです」と言っています。
そのすぐ後に、この時とは全く違う時に移動します。それはハワードが6歳の娘を亡くし、それとともに仕事への情熱も、友達も、人生もなくしてしまった時です。彼はもう会話もしなければ、何に対しても興味を示さず、ほとんどいつも泣きそうになっています。
しかし娘の死は彼をうつにさせてしまっただけではなく、自分の人生を生きることさえ出来なくさせてしまいました。妻とも別れることになりましたが、これは実際にとてもよくあることです。そこにはたくさんの要因があります。例えば、一方がもう一方よりも死に「うまく」対応できたり、お互いを責め合ったりするなどです。どちらか一方は一生それを乗り越えることができないかもしれません。
死を悲しむプロセス
死を悲しむプロセスは誰にとっても本当に辛いものです。子どもを失った時は特にそうです。中には、時間とともにその悲しみが自然と和らぐ人もいます。そしてついにその状況を受け入れられるまで様々な段階を経験します。
しかし完全に行き詰ってしまう人もいます。前に進めないでいることで、最後には精神障害になってしまうこともあります。ハワードの場合、彼が重度のうつになっていることがわかります。それについて話すことも、人と会話をすることもできない状態です。
ハワードの友達と同僚は彼のこの心理状態を心配していました。あなたの愛する人が、いつも人生を楽しんでいた人が、突然落ち込んでしまい前に進むことができなくなってしまったのを見ることは辛いことです。そこで彼らはハワードを助けることにしたのです。
もちろん、それは自分たちに直結する仕事のためでもありました。そこで彼らは探偵を雇い、ハワードが愛、死、時間へ手紙を書いていることを探し当てます。それは彼が映画の冒頭でとてもポジティブに語っていた概念なのでした。
それを見て、彼らはこの3つの概念を具現化した役を演じるため、3人の役者を雇います。そうすれば、ハワードの精神状態は今現在仕事をするには悪すぎるということを示すことができると思ったのです。また、これによりハワードが自分を閉じ込めてしまっている状況にも気づけるだろうと。
また、この設定がクリスマスの時期であることも大切です。これは一年の中で人々の気持ちが繊細になる時期です。過去を振り返る時であり、(ディケンズの小説のように)過去の亡霊に悩まされる時であり、もう一緒にいない人のことを思い出す時なのです。
寓話と死の意味
ハワードの友達も、自分たちの個人的な問題を抱えています。自分たちに残された唯一のもの、つまり彼らの仕事をハワードが危険にさらしていくのを感じているのです。ホイットは離婚したばかりで、娘には嫌われています。彼もまた人生における大切なものを失ったのです。
クレアは自分の人生を仕事に捧げてきました。家族を作ろうとしたことがなく、歳をとり、取り返しがつかなくなるのを恐れています。サイモンは不治の病を抱えていることを発見します。しかし彼は父親になったばかりで、家族に状況を伝えたくないと思っています。
寓話の役(愛、死、時間)を演じる役者たちは、その他のキャラクターたちとつながりを深めていきます。死はサイモンとつながり、彼の運命を受け入れるのを助けます。愛はホイットとつながり、娘との関係を修復しようとします。最後に、時間はクレアとつながります。
3つの異なるストーリーが、ハワードの物語と死を受け入れる道の中に織り込まれていきます。彼は自分と同じ境遇の人がいるグループセラピーに通い始めます。
死は私たち皆が向かう運命です。あなたが人生の中でどんな人だろうが、どれだけのお金を持っていようが関係ありません。最後には、私たちはみんな死ぬのです。この考えを良く表した絵で、フアン・デ・ヴァルデス・レアルの、Finis gloriae mundi(世界の栄光の終わり) があります。
このスペインの画家は、何体かの死体が腐ちていく様を描いていて、司教の豪華な棺とその後ろの極端に簡素な棺を対照的に描いています。絵の上部には、神罰に使うための秤を持った天国からの手が描かれています。
「素晴らしきかな、人生」のメッセージ
「素晴らしきかな、人生」は、本当に成功しているけれども、娘の死と向き合わなければならない男を描いています。その意味で、物語の冒頭から、死は普遍的なものだということを示しているのです。
ちょっと悲しい豆知識として、映画の撮影中、ウィル・スミスのお父さんがもう長くないということがわかりました。これもまた、死は誰にでも、どんなタイミングでも訪れうるという例の一つです。
素晴らしきかな、人生の主人公は、なぜ娘が自分より先に死ななければならなかったのか、なぜ人生を楽しむことさえできずにこの世を去らなけれなばならなかったのかを理解することができません。しかしこの映画はまた、時間は測ることができるけれど、単なる物の見方でしかないということも教えてくれます。それをどのように使うかは完全に私たち次第なのです。
そして、愛もあります。それは私たちの周りにある全ての原動力です。それは悲しみの原動力でさえあります。それが、この映画があなたに見て、理解してほしい原題「相並んだ美しさ(collateral beauty)」なのです。
「子どもの死は神の存在を疑わせる最も大きな理由である。」
―フィヨドール・ドストエフスキー―