アダムスファミリー:不気味な美しさ
アダムスファミリーは、一言で言って一つの社会現象です。数十年にわたって多くの人々に受け入れられてきました。その成功の鍵は何でしょうか?我々はなぜ恐怖に笑いを求めるのでしょうか?死の魅力とは何でしょうか?この記事では、これらの質問にお答えします。
アダムスファミリーは、間違いなくテレビや映画の世界で最も有名なファミリーの1つです。その名前を聞いただけで、忘れられない曲のリズムに指を鳴らしたい衝動にかられるのではないでしょうか。世界で最も奇妙な家族は、ハロウィーンやその他多くの祭りで我々を楽しませ、死をからかい、その不気味さで、私たちを驚かせ続けています。
なぜ人々は恐怖に魅了されるのか?
ホラー映画をみたいと考えたとき、私たちを驚かせてくれる映画を探すでしょう。私たちは、快適さと静けさに包まれたソファに座りながら、恐怖を体験したいと考えています。しかし同時に、それがフィクションにすぎないことを理解しています。どういうわけか、この体験に人は喜びを感じるのです。
一部の人は、ホラー映画がどこまで現実離れしたアイディアを見せることができるのか、そして通常それらに現れる多くの決まり文句を期待しながら、ホラー映画を面白いと感じています。その一方でホラー映画を避ける人も多くいます。
観客を怖がらせることは、見かけよりもはるかに複雑です。さまざまな感情と主観性が働きます。これはコメディにも同じことが言えます。笑わせることも非常に複雑な作業です。特に、みんなを笑わせたい場合はそう言えるでしょう。
では、ホラーな決まり文句を取り上げて、ちょっとしたコメディを混ぜたらどうでしょうか?それがまさにアダムスファミリーであり、そこに成功の鍵があります。
こちらもご参考に:
映画「ミッション(1986)」:人物構想のモデル
不気味な歴史
歴史の中で、死に関連する無数の芸術的兆候がありました。同様に、人類の歴史全体に点在する宗教とカルトの数は、我々が死後の世界について高い関心を持っていることを示しています。人間は死と未知のものに非常に高い興味を持っているのです。
これは多くの点で反映されています。墓地でさえ、芸術的な屋外エリアに立てることもできます。ミラノの記念墓地またはブエノスアイレスのレコレータ墓地が良い例でしょう。また、エジプトのピラミッド、先史時代の支石墓もその一例です。
メメント・モリ
このように、死を礼賛する過去の例はたくさんあります。文化や地理的な場所に関係なく、有名なラテン語の「メメント・モリ(死を忘るなかれ)」を思い出させる例はたくさんあります。解釈の方法は場所によって異なりますが、私たち全員が死ぬことは確実だからです。この死への興味が謎に包まれ、やがてホラー映画に登場しました。
未知のものや、何らかの形で私たちの生活を脅かすものは、常に恐怖を生み出します。これらの恐怖、オカルト、そして死は、生き続けたいという私たちの欲望につながる本や映画を作りだすのです。
ホラーは常に進化し、その時代や背景に適応していますが、単純明快で、コメディーにつながる要素があるホラーが受け入れられる傾向があります。恐怖を恐れないものがあるとすれば、それは恐怖を笑いとばす力でしょう。ストーリーの中で、恐ろしいモンスターが友達になったり笑えるものとなったりすることがあります。
ご存知でしたか?:
人間の不条理を描いた映画:クローズド・バル 街角の狙撃手と8人の標的
ゴシックフィクション
19世紀には、ゴシックフィクションが重要な足場となり、その結果、さまざまな作品が生み出されました。最近では、「コメディホラー」と呼ばれるものが良い例でしょう。ワシントン・アーヴィングの「スリーピーホロウ」はその代表作です。これは、ブラックジョークと恐怖が混ざった小説です。それ以降、たくさんのコメディホラー作品が誕生しました。
映画やテレビでは、「グレムリン(ジョー・ダンテ、1984年)」、「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ(フランク・オズ、1986年)」、「ホーカス ポーカス(ケニー・オルテガ、1993年)」、「マーズ・アタック!(ティム・バートン、1996年)」、「ビートルジュース(ティム・バートン、1988年)」がよく知られています。
スペインでは、アレックス・デ・ラ・イグレシア監督のコメディホラーが有名です。「ビースト 獣の日、1995」と「スガラムルディの魔女、2013」は彼の代表作です。私たちの恐れをからかったり、私たちの生活を取り巻く不条理な慣習を笑いへと変えます。
しかし、アダムスファミリーほど死とコメディーを組み合わせた最高なエンターテイメントはありません。今もなお、世界中のあらゆるファンを魅了しています。これまでにない方法で笑いと恐怖を組み合わせることに成功しました。アダムスファミリーは、多くの人々にとってコメディホラーが何であるかの決定的な定義となっています。
不気味なコメディ
アメリカの漫画家チャールズ・アダムスは、1933年に「ニューヨーカー」に載せた漫画で人々を驚かせました。人々はブラックユーモアと日常生活をパロディ化した不気味なキャラクターに次第に親しみを持つようになりました。
数十年後の60年代、これらの漫画はアダムスファミリーにも刺激を与えました。しかし、当時テレビで君臨していた唯一の奇妙な家族ではありませんでした。別のチャンネルで、「マンスターズ」という似たようなシリーズも放送されていました。
ブラックユーモアとホラーの決まり文句は、それらをパロディ化するために、現代の価値観に対する真の風刺の基盤として機能しました。どういうわけか、人々は正常なことがすべてがおかしく奇妙であると考えるようになり、型にはまらないものを崇拝しはじめました。この手法は、奇妙で視聴者を楽しませる逆さまの世界観を見せますが、同時に、視聴者に彼ら自身の価値を問いかけています。
私たちは皆、決定に影響を与え、間違ったことを正しく判断できる社会に生まれています。しかし、アダムスファミリーをはじめとするコメディホラーは、新しい視点を我々に提供しています。ユーモアを使用して、伝統的な視点に変化を与えているのです。
映画化
アダムスファミリーの成功は、テレビだけにとどまりませんでした。映画、アニメシリーズ、さらにはミュージカルも公演されました。
ホラー映画の世界のキャラクターですが、彼らは通常の日常生活を送っています。もはや近所の人を怖がらせる怪物ではなく、奇妙ではありますが、隣人として人間社会に存在しています。われわれ人間の中にも、何らかの理由で社会の規範に適合していない人は少なくありません。そういった人は、実は彼らとそう違わない存在なのかもしれません。
アダムスファミリーは人間の慣習をすべて破りますが、彼らには独自の道徳とルールがあります。彼らは私たちの世界を観察し、彼らにとって何がおかしいのかを何らかの意味で理解しようとします。
興味深い点は、従来の価値とルールを切り離し、皮肉を使ってそれらに疑問を投げかけるスタイルです。これはコメディホラーだけでなく、日常生活にも当てはまるでしょう。 「正常」が完全に反対だった場合はどうなりますか?私たちは、規範を超えたすべての行動を批判するでしょう。
アダムスファミリーのモーティシアの例を見てみましょう。彼女は、バラは花がなくトゲだけの方がより美しいと教えられました。私たち人間社会でも同様であったらどうでしょうか? 私たちはバラの花をしっかりと切り、いばらの美しさに夢中になります。誰かが花びらを賞賛しているなら、奇妙だと思うでしょう。最終的に、すべては視点と社会が私たちに教えたことに依存しているのです。
恐怖の美しさ
恐怖と美しさを対比すると、笑いが生まれます。価値は真逆になるでしょう。不気味さが美しいと見なされ、すべてが疑問視されます。さらに、多くの人が恐怖の中にある美しさを見つけることを忘れてはなりません。美しさは完全に主観的なものなのです。
人生ははかないものであり、この世界を通過することは本質的に死と結びついています。我々はなぜ死を恐れるのでしょうか?ユーモアを持って死を考えてみてはどうでしょうか?アダムスファミリーは何十年もそれを成功させており、私たちの人生(または死)をより楽しくする一種の安堵感を与えてくれます。
人生は時に非常に悲劇的です。私たちが夢見ていたように楽しいことばかりではなく、辛いこともあります。そのため、笑いはセラピーであり、最も暗い瞬間に私たちを安心させ気持ちを浄化させる力があります。
今回ご紹介したように、アダムスファミリーは、美、善悪、道徳、ユーモアに対する彼ら特有の態度で私たちを魅了します。長年に渡り我々を魅了してきたファミリーは、これからもその記録を持続し、私たちを刺激し続けるでしょう。