エクスティマシー:私的な情報が公にされる時
最近、人々が自身の個人的な情報を全世界に向けて発信するのが一般的になっています。自分でもほとんど気づかないうちに、私たちは毎日他の人々の生活をのぞき見るようになったのです。誰もが自身の近況をソーシャルメディアに投稿しているのですから。この状態は「エクスティマシー(extimacy)」として知られており、この言葉は私的な情報を公にする行為を指しています。このエクスティマシーが、人々の世界観を完全に変化させつつあるのです。
よく考えてみましょう。最近では、頭に浮かんだ考えやアイディア、朝食に食べたもの、あるいは今聴いている音楽をいとも容易く投稿することができます。誰もがやっているのだから、あなたがやるべきでない理由はありませんよね?新たなテクノロジーが作り出した公共・共有領域においては、全ての人が控え目な自己顕示家なのです。
個人的な情報を共有して公開することは、同じことをしている他の人々とコミュニティを作るためだけの手段ではありません。私生活を公的なものにすると、人々に自分をアピールできますし、テクノロジーとデジタルの世界の中で存在感を持てるようになります。このことが、過去数年間のうちに、特に若者にとっては驚くほど魅力的なことになってきたのです。
エクスティマシーの潮流はこれからも続いて行くことでしょう。ここから先はエクスティマシーについてもう少し詳しく、その成り立ちや一般化した理由などについてお話しします。
エクスティマシーとは?どのように表出する?
エクスティマシーという言葉は、フランスの精神分析家ジャック・ラカンによって作り出されました。彼にとってのこの概念は、人間が外的世界でしか意味を成さない個人的領域を持つことによって定義づけられる状態を言い表したものです。例えば、無意識というのは常に外在化してしまう内的な心理状態ですよね。
フランス人精神病学者Serge Tisseronは、ラカンの生み出したこの用語を今日の現代的文脈に適用しました。現代において、エクスティマシーは「状態」ではなく、最新テクノロジーが個人に私生活の一部を公的領域(具体的に言えばデジタル世界)に晒すよう駆り立てる「過程」です。これはつまり、人々が自己顕示的になってきたということなのでしょうか?
そうとも言い切れません。実際には、全員がそれぞれ見せたいものを選んでいて、本当ではないことまで頻繁に投稿しているのです。人々は、公開するものに対して選択的で、その内容をどのように、そしてどこで見せるかを選んでいます。必ずしもソーシャルメディアだけが公開の場とは限らないのです。
エクスティマシー:本物の繋がりを手に入れるためのリソース
人はみな、他の人々がどう過ごしているのかを見たいと思っています。私たちは他人の日常生活をのぞき見ることに興味津々で、そこから何かを発見したり見たり理解したり、憧れたり賞賛したり学んだり、そして時には羨ましがったりするのです。しかし、私たちは感情を感じることも好んでいます。それを踏まえると、エクスティマシーとは観察者に対して、つまりスクリーンを使って他人の世界に入り込む人々に対して、感情的インパクトを作り出すのに理想的なリソースなのです。
大手メーカーやインターネット上のリーダーたち、そしてインスタグラマーたちは、人々に自身の私生活を見せるのがフォロワーを惹きつけるための効果的な手段だということを知っています。現時点までに誰もがこのことをすでに学んでいるのです。その結果、自分の生活の個人的な部分をフォロワーに公開するという一大ムーブメントに参加する人がどんどん増えてきています。また、これによって共感が生まれ、ある種の「親近感」のようなものを感じられるというのも、このムーブメントが広まっている理由の一つです。
ただし、エクスティマシーは偽りと切っても切れない関係であることを忘れてはなりません。ほとんどの場合、私たちには相手の現実を見ているわけではなく、彼らが公開しようと決めたもの、そして自分自身の象徴として見せたいものを見ているだけなのです。
自分をアピールするためにプライベートを共有する
デジタル・シーンやネットワーク、ソーシャルメディアは、パラレル世界を形成します。そしてスマートフォン、Eメール、チャット、メッセージシステムといったシナリオの中に、人々は存在したがっているのです。これを実現するためにはエクスティマシーを実践せねばなりません。
私生活を公にすることで人は別の世界に入ることができ、そこでは新たな自己を作り出してなりたい自分になることが可能です。これが行われないと、他人からはシンプルに存在を認識してもらえません。
エクスティマシーと、即時性へのこだわり
現時点で、エクスティマシーはある非常に特別な特徴によって定義づけることができるでしょう。その特徴とは、即時性です。「パートナーと朝食を食べています」、「職場に向かっているところです」、「瞑想しています」など、ソーシャルメディアを開いて人々がその場でその瞬間何をしているのか見始めるまでにはほんの数秒しかかかりません。これこそが最も重要なことなのです。昨日起きたことなど、今現在においては関係のないこととして扱われます。
最近では、私たちが「消費したい」あるいは見たいと思っているのは今その瞬間に起きていることなのです。
私たちが明らかにしている私生活や個人的情報は、知らぬ間に盗み取られている
ほぼ全ての人が写真や動画、アイディア、そして思考を自発的に投稿しています。つまり、私たちは皆、自身の個人的世界を構成する小さなカケラを、意識的な、しかしフィルターのかかった形で公開しているのです。しかし、私たちは時折、もう一つのカモフラージュされたタイプのエクスティマシーの存在を見落としてしまっています。
スマートフォンやタブレット、そしてノートパソコンにはカメラやマイクが付いていますし、私たちの使うアプリや私たちがサインアップするソーシャルメディアはアルゴリズムやボットを有しており、これらが私たちのデジタル世界での活動全てを分析しているのです。信じ難いかもしれませんが、私たちは観察され、聞かれ、分析されているのです。
私たちのプライバシーは、テクノロジーの持つ本質的な危険性によって公にされますが、このテクノロジーには、私たちに関する情報をできる限りたくさん集めて大企業に販売するという目的があります。言い換えると、個人的な情報は公開されるだけでなくマーケティングの道具にもされているということです。
まとめると、現代社会では私的なものと公的なものの境が過度に薄められているということになりますが、考えてみればこれは危険性を孕んでいます。そのことを心に留めて、どの程度のエクスティマシーなら自分にとって有益なのか、または有害なのかをじっくり考えてみましょう。
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- Alain Miller, Jacques (2010) Extimidad. Paidós