生き延びるために冷静になる
気づかないうちに、ちょっと冷たい心で、自己愛とは何かを思い出すために少し慎重になるときがやってきます。しかし、わたしたちの周りの人はこれが必要な内面の変化だということを理解できません。しかしそんな時「魔法」が起こります。周りの人が昔のあなたの価値を認識し始めます。
人は変わらないというひとがいますが、それは間違いです。しかし人は、指を鳴らした次の瞬間ふるまいや性格が変わったりもしません。変化のプロセスはもっと人目につかず、意識的で、不快なものです。ただの変化以上にわたしたちは成長するからです。 自分の限界やブラックホールにきちんと気づいていることでしか、この変化は成し遂げられません。
理性を失ったこころでさえ、こころでいることには疲れます。そしてそのこころは、より多くの壁と棘のあるワイヤーで囲い込むことでちょっとだけ冷徹になります。まさにその瞬間、他の人は昔のあなたの価値をみいだし始めます。
人生の複雑な旅の中では、冷たくなるのはただのUターンと変わりません。これは、シンプルな防衛メカニズムです。わたしたちの存在は、日々の生活の複雑な問題に直面するだけではありません。この人生の旅の本当の主人公になるためには、自分のサバイバルプロセスを作らなくてはいけません。
冷たいこころと小さなことの不在
ジェフリー・A. コトラーは、変化の心理の最も著名な普及者です。 「自分自身と一人きり」などの著書の中で、彼は一つはっきりしていることがあると述べています。人は、必要性から変化し、さらに言えばもっと効率的に生き延びるために変化します。
非常に面白い要素が一つあります。例えば、しばらく誰かに会わないとその人のふるまいに変化を感じるようになります。「でも、何が起こったんだろう?」などと思案します。コトラー博士は、人は素晴らしい変化を遂げるわけでもなく、変わるために衝撃的な突然の出来事を経験する必要もない、と言います。
日々の小さな痛みだけで十分なのです。小さな落胆、口に出された言葉、出されなかった言葉、不在、継続的な拒絶、すべてを与えたのにも関わらずお返しに何も受けとらないことの常習化です。少しずつ紛れもない感情的砂漠を作り出すちいさな砂の点です。しかしこの時、私たちの中で大切な変化が起こります。それは、生き延びるために自分自身を優先させることです。
自身の身勝手さから自分を守る
冷たいこころは、待つことにつかれたこころです。自尊心がアラームを鳴らし、解決策を求めて自分というコンセプトが非常ドアから逃げている状況です。ちょっとだけ冷たくなることは、人生の不協和音への一時的な反応です。赤いラインを引いて、もう一度自己愛が芽吹くようにしているのです。
その時、私たちの周りの人々は、その変化を認識し、何が起こっているのか、なぜ私たちが昔のように思いやり深く扱いやすい人でなくなったのかと思案します。これらの変化を理解するどころか、彼らの身勝手さを満たすために開け放たれていたはずのドアが閉まり、そのカギを見つけられずにイラついてすらいるかもしれません。
この変化は、下記で説明する様々な面を深く掘り下げるのにも役立ちます。
冷たいこころが学ぶこと
ちょっとだけ冷たいこころを持った人は(死んでいるわけでも、壊れているわけでも、スイッチが切れているわけでもなく)、物事はいつも望むようになるわけではない、ということを理解しています。それをありのまま受け入れなくてはならず、それに応じて行動すべきです。
人生は必ずしも公平ではなく、人は常に誠実で尊敬の念を持っているわけでもありません。だから、自分の存在を他人がすることにフォーカスしたり、自己確認をすることをやめたりする前に、自分が感じることに寄り添うことが大事です。そうすることで、自己愛が犠牲にならないようにします。
経験したすべての落胆、脅し、空虚さは、わたしたちのこころのネガティブな考えの「火花」を作り出し、突然作動します。そしてちょっとだけ冷たくなったこころの窓から見たとき、そこには2つの選択肢しかないことに気づきます。 自分のネガティブな考えにしがみつくか、それを消毒するかです。わたしたちは2つ目の選択肢を選びます。
時に、わたしたちの中で消え死んだすべてが突然現実に戻ってきます。ちょっとだけ冷たくなって、もっと慎重になったこころは、何がわたしたちの人生に残り何が去るのか見極めるために、節度を持って物事を見ます。信じるか信じないかは別として、このことは全く悪くありません。
変わることは、成長し尊厳を持つことです。その自然のプロセスのお陰で、傷跡から光が差し込みます。