実存的空虚:人生が無意味になるとき
人生は無意味だ。人生に対して無関心になっている人が抱く主な信念がこれです。不正の重圧を感じ、周りのあらゆる物からある種断絶されているように感じている人達です。言い換えると、彼らは実存的空虚を感じているのです。
彼らは大抵、死や自由の欠如といった事について深く考えるのが好きな思慮深い人達なのですが、自分を内から蝕んでいく実存的空虚を拭い去ることができないでいます。それは、何に価値があって何はそうでないかといったメッセージや、刹那的な満足を得ることが全てといったメッセージを常に送り続けている社会が一端を担っている虚しさです。
しかし、彼らもまた苦しみを鈍麻させることを目的とした快楽を常に追い求めています。問題は、自分が感じている虚しさにきちんと目を向けていないことです。
「人生って生きて何の意味があるの?」という疑問に対して良い答えを持っていない人も中にはいます。自分を満たす物は何もなく、何にも満足できない。そして、それがまさしく彼らを苦しみという心理状態に貶めるものなのです。ほとんどの場合、こうした状況は深い鬱や自滅的な行動へと変わっていきます。
実存的空虚とは存在意義の危機です。不安定な思考のせいで、結果として自分のことを人とは違った観点で世界を捉える人、あるいは苦しみを避けるために快楽を常に追求して流されている人にしてしまっています。これは今日の社会において広く伝播した現象ですから、更に深く掘り下げてみましょう。
実存的空虚:奈落の底で
頭の中で描いてきた人生の意味は、思い通りに物事が進まなかった時に崩れ落ちたりすることがあります。期待と現実の間で大きなギャップがあったりすると、大きく失望したりするかもしれません。
また、大事な局面で自分の安全や確かな将来などが脅かされ、そうした局面に対峙する手立てがないと、フラストレーションを感じることもあるかもしれません。
こうしたことが全て、深い実存的フラストレーションという状態につながり、時にはつらい地獄へとつながっていきます。それはまるで、自分の中に砂漠—不条理が自分の存在を定義し、他人とつながる術が全く失われてしまう砂漠—を抱えているようです。
心理学者のベンジャミン・ウォルマンはこれを「実存的神経症」と呼び、次のように定義しました。
「(実存的神経症とは)人生の意義を見失っている状態である。生きる理由、闘う理由、希望を抱く理由などはもうないという気持ちであり、人生の方向性や目的を見つけることはできないのだと思う気持ちである。たとえ人が仕事に打ち込んだとしても、そこに野心なんてものはないと信じてしまっている。」
社会的側面
心理療法士であるトニー・アナトレッラをはじめ、幾人かの著者が指摘するところによると、意義の喪失は己のエゴを満たすことを常に追求することに起因していると言います。己のエゴを満たす行為は自己中心的で、自己超越を阻むものだからです。
またこの件に関して別の著者は、人生が無意味に感じることは孤立、個人の価値観の優先、そして快楽が幸福を見つける鍵となるという間違った考えなどと関連があると主張しています。
つまり、自分の個人的な願望だけにフォーカスするあまり、共生や結束、尊敬といった社会的側面を希薄にしているかもしれないのです。
現実を理解せずに、幸福になる手段を目標にしてしまうと、この実存的空虚に陥るリスクが高くなります。 歓びといった短期的な快感は快楽を生みはしますが、自己実現にはなりません。またどのような快楽もそうであるように、中毒性があり、その奴隷と化す可能性だってあります。
いずれにせよ、人生はただ良いことをするだけではなく、自分で何かを生み出すことが必要となります。従って、人生の意味は自分が望み必要とする運命と関連しています。なぜなら、そうした願望を通して、自己を自由に成長させていけるからです。
幸せを感じられたら、それは自由が内在する境界線を越えた時です。そして、人生の意味は物質や有限のものではなく、それ以上のものなのだと理解することができるようになるのです。
ですが、思ったように事が運ばない時に、人生における意味がないと、実存的空虚という奈落へと続いてしまうのです。
人間の理知的次元
オーストリアの精神科医、ヴィクトール・フランクルによると、人間には主に3つの次元があると言います。
- 身体的次元—肉体と生物学的分野を含みます。
- 精神的次元—精神力動的現実、あるいは心理学的かつ感情的な世界です。
- 理知的あるいは魂的次元—魂の現象学が入ります。そのため、この次元は他の二つを超越したものになります。更には、このおかげで、人間は心理的な意味で健全な生活を送ることができます。
つまり、無感動の気持ちを深く抱いているならそれは、自身の魂的次元と矛盾した状態にあるということです。自身の傷を癒せなかったり、あるいはそもそもその傷自体を認識できなかったり、生きる意味が見出せなくて苦しみに溺れ、目的と一貫性のない生き方をしていたり。言い換えると、こうした状態が実存的空虚なのです。
社会的価値と個人的価値
フランクルは、意味を見つける術は自分の価値観の中にあり、また社会的意識がその意味を浮き彫りにするのに役立つと強調しています。とは言え、価値観というものは自分というものを深く知ることで生まれるものでありながら、ある文化や宗教、あるいは哲学的体系に合った普遍的価値観となってしまったりします。
そのため、自分の幸せの責任を他人に転嫁しない限りは、他人と愛のある絆を保ちつつ、つながっていることが人生の意味を失わないために大切になります。ある意味、有意義な人生は社会的要因に根差しているところがあるのです。
フランスの社会学者であり哲学者であったデュルケームは社会的要因の欠如とそれが何を意味するかについて次のように明確に説明しています。
「(個人が)度を越えて個人主義化し、自身を人なり物なり他の生き物から極端に遠ざけてしまうと、自分を糧にすべき資源から孤立した状態となり、何物とも共感できなくなる。自分の周りに空虚を生み出すことで、自身の中にも空虚を生み出し、己の惨めさ以外に振り返るものがなくなってしまう。自分の中に存在する無とその結果生まれる悲しみより他に瞑想する対象物がなくなってしまうのである。」
人生の意味を見つけようとする前に自身をよく知ろう
とは言え、ここでの目標は自分の人生を誰かや何かのせいにしたり、救世主を探すことではありません。そうではなく、自分自身をよく知れるように内省的で責任感のある態度を持つことです。目的を見つけ、実存的空虚から抜け出すことなのです。
また、人生の意味を定義する方法は世界に存在する人の数だけあるということを認識することも有益です。実際、私達はそれぞれに人生という旅の中で何度も人生の目的を変えることができます。 ですから、大事なのは、ヴィクトール・フランクルが言っているように、一概に人生の意味ではなく、その瞬間を生きる意味なのです。
また、人生の意味を模索するのではなく、自身を模索すべきだとフランクルは述べています。責任感は自分の存在に密接に関わる要素です。自分という人間を見つけることで人生の意味を見つけましょう。
実存的空虚から抜け出すために態度を変える
人生とは時に、時間やエネルギー、労力や心血を注いでも、不公平なことがあります。また、そういった時に機嫌が悪くなるのは全くもって理解できることではありますが、こうした状況で選ぶことができる選択肢は二つあります。既に起こってしまったことは変えられないんだと受け入れ犠牲者として振る舞うか、実は起きた出来事に対する自分の態度の他に変えられないものはないということを受け入れるかのどちらかです。
あなたには自分の行動、感情、思考、そして決断に対して、責任があります。だから、何に対して責任を感じるかを決めることが可能なのです。
従って、人生の意味は永遠に変わり続けるものとなります。その状況に留まり続けるか、あるいは真の自分に耳を傾け威厳を持って行動し快楽の罠と刹那的な満足から解放されるか。そのどちらかを決断する機会が毎日、毎瞬、あなたにはあるのです。
「人間は他とは一線を画すものである。物事はお互いを決定づけるものだが、人は究極的には自己決定的だ。与えられたものと環境という制限の中で何になるかを、自身の中から生み出しているのである。」
―ヴィクトール・フランクル―
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