『霧』-ウナムーノの書いた“ニボーラ”
1914年、ミゲル・デ・ウナムーノは独特な小説を出版しました。ウナムーノは、他の作品と比較されることで起こるであろう批評を避けるため、この作品を小説ではなく、“ニボーラ”という分類に属すると主張しています。この作品はスペイン語で“Niebla”で、日本語で『霧』と訳されています。この記事ではこの文学界の宝について見ていきます。
ウナムーノはスペイン文学の中でも非常に重要な人物の一人です。1864年ビルバオに生まれ、1936年サラマンカで息を引き取りました。現在、ウナムーノは偉大な小説家の一人に挙げられ、また1898年世代の代表者でもあります。
この作品に、ウナムーノは今までの作品で表したたくさんの思想を集約しました。これを表したのは主人公アウグスト・ペレスで、法を学んだ裕福な人物です。話自体に大いに意外性があるわけではありませんが、彼は話に別の次元を加えようと試みました。
この作品は従来の分類なら小説に属するものですが、ウナムーノは小説ではなく“ニボーラ”という新たな分類に分けようとしました。今日の記事では、この本のカギとなる部分を解き明かしたいと思います。
「ニボーラ」論争
まず、読者の目を引くのが、Víctor Gotiの署名入りのプロローグです。彼は登場人物の一人です。また、ウナムーノはポスト・プロローグも作り、読者が今から読むのは小説ではなく「ニボーラ」であることを主張します。
また、ややこしいことに、エピローグでは、話の中の出来事について語られています。そして、これはアウグスト・ペレスの犬オルペウスの視点から見たものなのです。
この話は、アウグストが後に恋に落ちる女性と出会うところから始まります。自分の限られた力を使い、彼女の注意を引こうとしますが、彼女には恋人がいるためアウグストはふられてしまいます。後に、彼女はアウグストとデートの約束をしますが、これは単に彼を利用しようとしたものでした。そして最後、結婚式の日に、彼女はこれがすべて悪ふざけであったと手紙を書いたのです。
この瞬間から、読者は、物語を読む人としての視点から真の改革を目にすることになります。アウグストは途方に暮れ、自殺を図ろうと計画します。しかし、彼は単なる登場人物にすぎず、自由の意志はありません。最終決断をするのは、著者であるウナムーノです。
そして…
ここで、「第四の壁」と呼ばれるものが崩壊します。そして、アウグストは著者に話しかけます。ウナムーノに直接話すのです。
自分の意志を打ち明け、著者に反抗することになります。これにより著者は、自分も架空の物語の登場人物なのではないかと考え始めます。自分の自由の意志はどの程度あるのでしょうか? ウナムーノが自分の自由や現実を疑い始めた時に、読者にも自分の存在に疑問を持たせるのが狙いです。もし、人間が夢の中でのみ存在するとしたら? もし、人は誰かの夢の一部でしかなかったら?
この小説の範囲は、話の筋にのみあるのではなく、読者や著者との対話にも存在します。このような理由から、ウナムーノはこの話は別の分類に属するものだと考えたのです。このパラテキストが散在する別の分類をニボーラと呼ぶことにより、ウナムーノは、人が他の作品と比較したり、レッテルを貼ったりする様々な批判を阻止したのです。
ウナムーノのニボーラ『霧』の中の現実とフィクション
ウナムーノの作品は、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの『人の世は夢』に似ています。著者自身よりも、架空の物語の方がどこか現実的で、ウナムーノには登場人物としての命があります。読者が彼らを生かし、文学に息を吹き込むのです。
これらは、永続性の問題と深く関係しています。あなたが自分の夢であり、人の夢が共通の現実であれば、それが現実だとは言うことはできません。
ウナムーノはデカルトやカルデロン・デ・ラ・バルカの作品を読み、そこからインスピレーションを得て、ニボーラを思いついたのです。原則として、人を取り囲むものが夢以上の物であると言える理由はなく、デカルトの合理主義が反映されています。
ウナムーノは、神の存在を信じていましたが、デカルトほどこれを合理的に考えることはできませんでした。そのため、彼を取り囲むものが夢や偽りではないと信じる理由が見つからなかったのです。では、自分の感覚が自分を欺いているか、どうしたら分るのでしょう?
ウナムーノは、様々な宗教を描写し、『霧』の中でその複雑性を集約しました。まず、登場人物が生きる架空の世界です。次に、構成架空、つまり、架空の現実であり、架空の著者が生きる場所があります。最後に、本の外にもうひとつの世界があります。それが、読者の存在です。
『霧』の中で、著者は絡み合う様々な面を表現しています。アウグストと出会い、著者は登場人物の一人になりました。つまり、読者の前には、自分の周りを取り囲む世界である現実の現実があり、一方でウナムーノがいる架空の現実があります。そして、最終的に登場人物は架空の架空にいるのです。
ウナムーノのニボーラ『霧』の哲学的な面
もうお分かりかもしれませんが、『霧』の中心となっている問題に自由意志があります。この自由意志には2つの側面があります。ひとつは、架空の存在の中にあり、そこに自由があれば登場人物が現れる場所です。
アウグストは自殺を図ろうとしますが、ウナムーノはそうさせません。それは、ウナムーノが登場人物であるためです。ここで、読者も頭の中で同じようなことを考え始めます。
登場人物は言葉から、そして受け継がれることで生まれます。そのため、考える自由はありません。そこで、2つの可能性が浮かびます。ひとつは、神は存在せず、現実は人々が見る夢でしかないというものです。そしてもうひとつは、神は存在し、人間は神の夢であるというものです。
アウグストは人生をかけて戦います。架空の世界かもしれませんが、彼にとってはそれがすべてです。登場人物としてのアウグストは、人は皆死ぬこと、そしてこの本は究極的には人間の存在自体のメタファーになっていることを読者に伝えます。
さいごに
ニボーラとは何でしょう? ニボーラとは一種の小説で、登場人物の説明が事前になく、動きと同時に作られる物語です。作者が、何が起こるかに関し大枠を考えているのではなく、人生で物事が起こるように物語は進みます。
ニボーラの目的は、以前の作品と比較する傾向をもつ批評家を混乱させることでした。そこで、先例のない新たなジャンルを作り、比較できないようにしたのです。
ウナムーノにとって、現実的な小説はどこか偽りのようなものでした。このような小説は、読者にそれが現実だと信じさせるもので、現実は夢であると気づいていない人々の本でした。一方でウナムーノのニボーラは、どんな小説をも理解させる方法のひとつです。それは自分が考え、積極的に読む時にのみ、存在するものです。ニボーラは心地よい物語ではありません。この作品は、プロローグも小説の一部となっており、その文章の中で現実とメタフィクションが混じり合っているのです。