「目に見えない病」:慢性疾患の苦しみ

「目に見えない病」:慢性疾患の苦しみ

最後の更新: 16 10月, 2017

私達は慢性疾患が未だ目に見えない形で存在する社会に暮らしています。ここで話しているのは線維筋痛症などの現実の病気の話です。しかしながら、多くの人にとって、これは欠勤を正当化させるただの「想像上の病」だったりします。今こそそういった考え方を変えるべき時です。病が現実であるために傷つく人を見る必要はないのです。

世界保健機関(WHO)によると、目に見えない慢性疾患は全ての現存する病気の80パーセントを占めるといいます。これには精神病、癌、狼瘡、糖尿病、頭痛、リウマチ、線維筋痛症やその他多くが含まれます。

こうした病に苦しむ人にとって、これらは衰弱に至る病です。残念ながら、こうした病に苦しむ人は、事情を全て知らずして偏見の目で見がちな社会に直面せざるを得ません。

「終いに私達は思っている以上にずっと多くの事に耐えることができる。」

―フリーダ・カーロ

慢性疾患と共に暮らすことは孤独であるのと同時にゆっくりな旅路です。この旅は、はっきりとした診断の探索でからはじまります。これは容易ではありません。事実、体内にあるものにようやく名前がつけられるまでに何年もかかることがあります。

その後、病気が分かった後は更に複雑なステージが待っています。痛みと共に自分の威厳と生活の質を見つけることです。

こうした病気への理解と敏感さの欠如を付け加えれば、なぜ鬱病がこうした病気に混ざってよく発症するのかは容易に理解できるでしょう。一方で、慢性疾患の影響を受けている人の中でも著しい割合を占めているのが子供であることも忘れてはいけません。

顔が半分消えた男性

見えないけど現実に慢性疾患を患っている

慢性疾患に苦しむ多くの人はしばしば病気の目印を持ち歩く必要があると感じています。この具象表現された目印には、病を患った人に何が起こるかが他の人に分かるように説明された大きな文字が記されています。より詳しく説明するために、例を見てみましょう。

マリアは20歳で、学校まで車で運転して行きます。彼女は障碍者用の駐車場に車を停めます。その後、彼女は傘を手に取り、傘を持って授業へと歩いて行きます。ある日、彼女はソーシャルメディア上である画像に気づきます。そこでは、彼女がエキセントリックだからという理由で人々が彼女のことをからかっていました。つまるところ、彼女はどこに行くにも傘を持って歩いているのです。おまけに、その人達は障害者エリアに車を停めるなんて「図太い」と彼女を侮辱しているのです。やはり、彼女には二本の足があり、二本の腕があり、二つの目があり、素敵な顔がある・・・目に見えることが全てなのです。

さて、しばらく経ってから、マリアはクラスメイトと話すことになりました。彼女は日光が活性化させてしまうかもしれない病気である狼瘡を患っているのです。また、彼女は人工補綴の腰をはめていました。彼女の病は目には見えませんが、確かに存在するものです。それは彼女の生活を変えてしまったのです。おまけに、その病は毎日より強くなり勇気を持てる人間になれるようにと挑んでくるのです。

さて、こうした人達はどのようにして痛みを説明する必要性なしに生きていくことができるでしょうか?どのようにして懐疑的な態度に耐えることができるのでしょうか?

赤いうずくまる女性

マリアだって毎回彼女に何が起こっているかなんて言いたくありません。特別な治療も望みません。彼女はただ尊重と理解が欲しいのです。

これは私達の社会では難しいことです。結局のところ、病気なのであれば、それは見えるものであってほしいと私達は望んでいるのです。

見えない病気と感情の世界

こうした慢性疾患が病を患っている人の力を奪う程度は個人によって差があります。中にはより自由がきく人もいます。代わって、その日によって機能できたりできなかったりする人もいます。後者の場合、病気がないと感じたりする時に苦しみや他の体験があったりします。

見えない障害の会(Invisible Disabilities Associations, IDA)と呼ばれる組織があります。この組織は障害を持たない人を教育し、「見えない病」で苦しむ人を周りや社会と関わりを持たせる取り組みをしています。この組織が1つ明確にしていることは、慢性疾患と共に生きることは、家族や仕事、学校の中であっても問題であるということです。

窓ガラスに手を当てる女性

例えば、青年期の患者の多くはしばしば病気を言い訳に言い逃れしていると非難を受けることがあります。つまるところ、非難をする人はその患者の疲れがただの怠慢によるものだと思い込んでいるのです。「お前のその痛みは学校を休んだり、宿題をしない言い訳なんかじゃないんだぞ」と。

こうした状況はやがてそうした患者をもっと見えなくなってしまうまで現実から剥離させることになってしまいます。

精神的に強くいることの大切さ

誰も頭痛や狼瘡、または双極性障害を患うことを選んだわけではありません。現実に、彼らは一つの選択肢に直面しているのです。それは、痛みや恐怖があるにも拘わらず、毎日闘い、肯定的であり、立ち上がることです。

慢性疾患は病と共に訪れる多くの習慣を迎え入れなければいけません。その一つが自分はどこかで一度は偏見の目で見られるだろうということを受け入れることです。ですから、私達は適切な対策を準備しておかなければいけません。

自分の身に何が起こっているのかについて話すことや、自分の病を定義することを恐れていてはいけません。結局のところ、周りの人に気づいてもらうために、目に見えないものは見えるようにしていかなければならないのです。

自分の身に降りかかる全てを対処できる日もあれば、悩みもがく日もあります。しかし、どんな時も自分は同じ人間のままです。

私達は自分の権利を守れなければいけません。職場や学校での権利もこれに含まれます。

神経科医、リウマチ学者、精神科医は皆、ある必要不可欠なものを薦めています。それは動くことです。人生では動き続け、毎日に直面しなければいけないのです。例え自分が痛みの捕虜になってしまうことがあっても、このことを覚えておかなければいけません。もし立ち止まってしまったら、そこには更なる闇や負の感情、そして拒絶が待っているのです。

線路に立つ女性

まとめると、覚えておくべき最も重要なことは、慢性的で社会的に見えない疾患に苦しむ人は憐みを必要としていないということです。また、私達は彼らのために何かしてあげているわけでもありません。しかし、彼らが確かに求めていることは共感であり、理解であり、尊重なのです。

結局のところ、愛や痛みなどという最も強烈で、素晴らしい、あるいは破滅的なものは目には見えないものです。

見えないけれど、確かにそこにあるのです。


このテキストは情報提供のみを目的としており、専門家との相談を代替するものではありません。疑問がある場合は、専門家に相談してください。