スタンリー・キューブリック:天才の人生
スタンリー・キューブリックの名前を聞くと、映画、完璧主義者、対称、そして深さなどが思い浮かぶことでしょう。キューブリックは20世紀の偉大な映画監督の一人です。しかし、彼の才能を疑う人はいないものの、撮影中のキューブリックのストレス、疲労、不安はよく知られています。
数えきれない話や伝説で、キューブリックには神話的なイメージができました。現在でも彼の映画を鑑賞し、真実のヒントを得ようとする人もいます。彼の最後の映画で、波紋を読んだ「アイズ・ワイド・シャット」が、彼の死と関連していると推測する人もいます。
キューブリックに対する、呪われていて苦しんだ天才というイメージが年月をへて大きくなってきました。この記事では彼の人生と彼のジャンルを超えた作品について紹介します。
スタンリー・キューブリックと映画との出会い
スタンリー・キューブリックは、1928年、7月26日、ニューヨークのブルックリンに生まれました。裕福なユダヤ人の家庭で成長したにも関わらず、キューブリックは無神論者でした。子供の頃から、チェス、ジャズ、写真に興味を示し、この興味が未来の職業に大きく影響を与えました。キューブリックにとって、チェスは単なるゲーム以上のもので、何か実行する前に考えるという能力を与えてくれました。
また、キューブリックは映画を監督することとチェスに共通するものを見出していました。チェスを通して、一手打つ前に観察して分析するという能力を身につけたのです。チェスには常により良い一手があり、全てを運に任せることはできません。
かれは大のチェスファンであり、作品の中に直接的や間接的なチェスの引用を数多く取り入れました。例えば、「2001年宇宙の旅」ではフランクがコンピューターHAL9000とチェスをするシーンがあります。
「チェス盤の前に座ると、突然心臓がドキドキする。駒をとって動かすのに手が震える。しかし、どんな状況であれ、落ち着いて座って、この一手が本当にいい手なのか、ほかにもっと良い手がないのか考える能力をチェスから身につけることができる。」
―スタンリー・キューブリック―
初期の作品
スタンリー・キューブリックは決して良い生徒ではありませんでした。よくクラスをサボり、成績は悪かったといいます。そうであっても、彼が聡明な若者であったことは確かです。彼の写真に対する興味は、16歳という若さで雑誌Lookで働くというキャリアに繋がりました。
彼の映画への進出は50年代、「拳闘試合の日」(1951)というドキュメンタリー作品がきっかけです。その後、彼は写真家としての仕事をやめ、最初の長編映画恐怖と「恐怖と欲望」(1953)の制作にとりかかります。決して成功とは言えず、キューブリックは、質の悪い映画だったとして、コピーを全て消去してしまいました。
時を同じくして、キューブリックはのちに妻となる、ドイツ人女性に出会います。名前はクリスティーン・キューブリックで、彼女はキューブリックの3人目の妻でした。
フィルム・ノワールを数作品制作したのち、「突撃」(1957)で注目を浴びます。この作品は反戦争映画で、評論家の称賛を得たカーク・ダグラスが出演しています。
初期からキューブリックは、作品に対する完璧主義と絶対的なコントロールが特徴で知られています。彼は全ての過程において、コントロールしなければ気がすみませんでした。制作、監督、配信に関してもです。これはチェスへの愛と深く関係しているという人もいます。彼はたちまち、脅迫的、権力的、そして完璧主義者として広く知られるようになりました。
スタンリー・キューブリックは報道陣に、ただ単に自分が想像している通りに映画を作りたいだけだ、と念を押して伝えています。全てが思ったように映像となるように映画作りをしていて、それがネガティブなこととは思わないとも言及しています。
最も有名な作品と称賛
「突撃」以後、60年間キューブリックは評価の高い映画を作り続けました。「スパルタカス」(1960)は彼の初めての高予算映画です。「ロリータ」(1962)は、議論を読んだ同じ題のノボコフの小説を映画化したものです。「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(1964)はピーター・セラーズ主演の素晴らしい映画です。また永遠に称賛されることとなった「2001年宇宙の旅」(1968)もまた素晴らしい作品です。
完璧を求めて
キューブリックの完璧主義が「2001年宇宙の旅」で、宇宙人を映さないという決断に至らせました。宇宙人をリアルに描く方法を見つけることができなかったため、スクリーンにはっきりと映し出されることはありませんでした。変わりに、キューブリックは観客の想像に任せることにしたのです。
ジャーナリストのマイケル・ハーは2000年にキューブリックの伝記を出版しました。伝記「キューブリック」で彼は、有名な映画監督の神話と伝説を分析しています。それでも、彼はキューブリックを特異な人物として描いています。
映画制作時、キューブリックは、自分が何を表現したいのか、はっきりとわかっていました。その結果、「時計仕掛けのオレンジ」(1971)のような作品では検閲に引っかかることもありました。また、「バリー・リンドン」(1975)では自然光を使って撮影し、それまでの映画制作の型を破りました。
キューブリックは、18世紀に生きた人物を描きたいのであれば、その時代にどっぷりつからなければならないと信じていました。ですから、バリー・リンドンはロウソクの灯で撮影され、キューブリック自身もその時代の装飾品に囲まれて生活しました。彼の完璧への執念が、映画製作の新しい技術と方法を生み出していったのです。
1980年、この才能に溢れた監督は、同じタイトルのスティーブン・キング原作小説に影響を受けた、「シャイニング」で人々を怯えさせます。撮影は簡単ではありませんでした。キューブリックと、主演役者シェリー・デュヴァルとの確執が、キューブリックの冷酷で頑固な監督というイメージに追い討ちをかけました。「時計仕掛けのオレンジ」に出演したマルコム・マクドウェルとの撮影も困難なものでした。撮影中にマクドウェルは肋骨を骨折し、角膜の怪我に苦しみました。
キューブリックは80年代の「シャイニング」の後、ゆっくりと映画制作するようになります。次の作品で「突撃」のテーマに再度触れた、「フルメタル・ジャケット」(1987)には7年間の時間を費やしました。
月面到着からアイズ・ワイド・シャットまで
キューブリックの作品はどれも象徴的な意味があります。その象徴は、観客に現実と関連のある情報を伝達するものでした。「2001年宇宙の旅」が世に出ると、映画界での特殊効果が大きく変化しました。この時代の映画でリアルで素晴らしい特殊効果を用いた映画は、果たしていくつあるでしょうか?ここで大切なのは、これが人が月面を歩く前の出来事だということです。
キューブリックがまるで後のことを予期していたかのように月面着陸を映画にしたことから、キューブリックの伝説が始まったのです。彼の以後の映画でもみられるように、キューブリックは多くの潜在的なメッセージを映画に組み込んだ、と信じる人も多くいます。例えば、「シャイニング」でダニーが”アポロ11. USA”と書かれたTシャツを着ているシーンなどです。
この都市伝説は、偽のドキュメンタリー映画で、キューブリックが月面の捏造映像制作に加担したとする、「アバランチ作戦」という映画の影響で、たちまち大きくなりました。このドキュメンタリー映画が真実に基づくものだと信じる人もいたため、この噂がさらに広まることとなったのです。
2016年、キューブリックの娘、ヴィヴィアンがTwitterでこの都市伝説を否定しました。彼女はまた、キューブリックは映画の内容をめぐり、アメリカ政府との間に問題があったことにも言及しました。キューブリックが自身が自分の映画を検閲しようとする政府のために働くとは考えにくいですよね。
ヴィヴィアンの努力にも関わらず、この都市伝説は続き、インターネット上にはキューブリックが秘密組織と関わりがあったとする説がたくさん存在します。また彼の最後の作品、「アイズ・ワイド・シャット」は、世界を支配する秘密組織の真相を世に伝えるためであった、と信じる人もいます。彼らは、この作品は彼の死刑宣告の様なものだったと信じています。キューブリックは政治的に物議をかもす存在で、民主主義に対して懐疑的でありましたが、この様な説が本当であったのか知る由はありません。
スタンリー・キューブリックの死
明らかなのは、キューブリックは心臓発作により、「アイズ・ワイズ・シャット」が公開される前の1999年、3月7日に70歳でこの世を去ったということです。宗教的な儀式は行われず、密葬で、遺体は彼の家の裏庭にある、彼が大好きだった木の下に埋められました。
キューブリックに関する奇妙な伝説が真実であるか、そうでないかはわかりませんが、彼が才能のある映画監督であったことは明らかです。彼は功績を残した映画監督で、彼の伝説は何年経っても語られています。作品の中には、「ナポレオン」や官能映画の「ブルームービー」などキューブリックが完成させられなかったものもあります。
彼は、アカデミー賞の監督賞を得ることはありませんでしたが、「2001年宇宙の旅」で特殊効果賞を受賞しています。議論を醸し、匹敵するものがなく、神経質で、天才。そんなスタンリー・キューブリックは、素晴らしい映画を私たちに残してくれました。
「言葉にしたり、考えたりできることは、映画にすることができる。」
―スタンリー・キューブリック―