科学と宗教ー無茶な討論の結果

科学と宗教ー無茶な討論の結果
Roberto Muelas Lobato

によって書かれ、確認されています。 心理学者 Roberto Muelas Lobato.

最後の更新: 21 12月, 2022

科学と宗教の衝突は、典型的、古典的、そして、間違ったものです。科学と宗教の討論はあまりに過激になり、人はどちらかを選らび、一方を嫌いますソーシャルメディアでは、不合理な推論がみられます。不公平なものが多いと、異なる信仰を持った人々への攻撃はさらにひどくなります。

誤解の中には、いつも敗者がいます。科学vs.宗教の討論も同じです。しかし、討論での敗北感は、とても主観的なものであることがあります。最終的に、敗者の数は問題ではありません。誰も説得されず、何も明白になりません。反対側に移ったり、自分の元の立ち位置を疑うこともありません

教会

 

科学と宗教の討論

ここで、討論でよく用いられる論点をあげましょう。ソーシャルメディアや様々なフォーラムで見られる二つの意見です。科学派は、聖書の情報は真実でないため、宗教派は間違っていると主張します。例えば、キリスト教に対して議論する人は、創造神話を持ち出します。神により、最初の男性が作られ、その男性のわき腹から女性が創造されたと語られる神話です。

進化論を信じる人に反論する人は、猿から人間になったというのは、不可能なことだと主張します。このおかしな考えは誤った解釈から生まれており、最も一般的なもののひとつです。進化論を理解しない人がいるのが事実である一方、聖書を文字通りとり、比喩をすべて無視する人もいます。

「自然そのものが、神に関するすべての精神に刻み込まれている。」

-キセロ-

もうひとつ物議をかもすものに、歴史的に有名な人物の信仰があります。科学派も宗教派も、哲学者、科学者、物理学者などで、神を信じた、また、信じなかった人物の名前をあげます。宗教的な科学者が一番だと考える人も、無神論者が良いと考える人もいます。どちらにしろ、その人物が重要であるというだけで、その名前をあげるのです。しかし、宗教において偉大な進歩をもたらした科学者について語られることは、ほとんどありません

また、科学が現代の宗教だと考える人も多くいます。それでも足りないかのように、宗教的な人は、科学的議論を用いて神の存在を立証しようとします。神の存在または存在しないことを証明するための討論は、明らかに何も解決せず、崩れていってしまいます

アインシュタイン

 

これらの討論を理解するには?

この類の討論は、自省や思考に欠けます。相手を信じないということのみを求めています。インターネット上、顔を向き合わさない討論では、フィルターを通さず、意見が自由に表現されます。インターネットにおける匿名性により、攻撃の対象をより一般化させ、非個人化します。宗教や科学を批評する時、それは特定の人に向かいません。一般的な人やアイデアを責めるのです。しかし、この類の討論は、人が意見を個人的に受け取りやすい状況をつくることがあります。

これらにより、議論はさらにおかしくなり、主題から離れていく環境を生みます。科学と宗教は両立するもので、様々な見方がこれらを統合してくれます。共存するのが困難なのは、相手の意見を聞かずに討論しようとする人です。また、唯一の解釈がほぼ批判であるような人も同様です。

科学と宗教

 

科学と宗教の現在の位置

科学は一種の方法論であるということを頭に入れておくことが重要です。世界を理解するのに役立つ方法のひとつだと考えることができます。しかし、科学は完璧ではありません。その方法は完璧でなく、それを実行する人も完璧ではありません。出された結論は、矛盾していたり、間違っているかもしれません。科学の範囲から逃れる人生の場面もたくさんあります。しかし、だからと言って、あらゆる古い理論を受け入れ、絶対的な相対主義の犠牲者になるべきではありません。

「もし、牛や馬やライオンに手があり、描くことができるなら、人のように彫刻ができるなら、馬は馬のような神を、牛は牛のような神を描くだろう。それぞれが神の像を、自分と同じように作るだろう。」

-クセノパネス-

一方で、宗教は、世界を単純な観点で見る人が見逃しがちな機能を満たしています。宗教は人々を統一し、緊張や死にまつわる恐怖を緩和し、共有や寛大さを促します。宗教は、誤った考えに基づいていることもありますが、それ自体は悪いものではありません。宗教を偏った方法で解釈する人が、それを悪くしているのです。

科学者カール・セーガンは、科学がすべてを説明するこはできないという実践的な例をあげています。セーガンは、この世界を、すべての住人が四角い平面である二次元だと考えなければならないと言います。この世界に、ある日、突然、ボールが出現しました。四角の住人は、ボールが宙に浮いていたため、見えませんでした。しかし、ある時、ボールが地面で跳ね、丸い跡を残しました。この世界の住人は、ただ驚くばかりでした。

この話は、馬鹿げているようですが、道の次元についてのアイデアを再思考するのに役立ちます。私達は、すべてを知っているわけではなく、これからも知ることはないでしょう。そのため、異なる考え方をする人をバカにすることなく、きちんと考えることが重要です。尊敬の欠如は、衝突や人を引き離す原因になります。対話や理解が、再認識を促し、私達は一体となることができるのです。


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