ベネチアの偉大な画家ティツィアーノの絵画と生涯

ティツィアーノは盛期ルネサンスの画家で、ヨーロッパ中で讃えられています。彼の画家としてのスキルや繊細さが人気の秘密です。興味深いことに、有名な作品の中には、宗教画や色情的な作品もあります。ティツィアーノの生涯について学びましょう。
ベネチアの偉大な画家ティツィアーノの絵画と生涯
Gema Sánchez Cuevas

によってレビューと承認されています。 心理学者 Gema Sánchez Cuevas.

によって書かれた Camila Thomas

最後の更新: 21 12月, 2022

ティツィアーノは、芸術界に偉大な影響を与えたとアーノルト・ハウザーエルンスト・ゴンブリッチを代表とする芸術評論家や歴史家は言います。若い頃から、偉大な画家として人気がありました。

絵画を通じて、彼は人間の精神の深さを描いています。宗教画においては若い聖母マリアの美しさから磔や埋葬の深い悲しみまで、人間の感情の幅が捉えられています。

神話を題材とした絵画では、異教徒の世界の喜びと切り捨てが描かれています。ティツィアーノのヌード、ヴィーナス(ヴィーナスとアドニス)やダナエ(ダナエと世話人)は、今まで見られなかった、身体的美しさと色情の基礎となりました

ティツィアーノの色使いや彼の創造力はあらゆる世代の芸術家に大きく影響したと芸術評論家は称賛します。ルーベンスやニコラ・プッサンなどの偉大な画家の作品は、「真似されることは最も誠実な褒め方だ」という格言を証明しています

ティツィアーノ 絵画

 

ティツィアーノの幼少期

ティツィアーノ・ヴェツェッリオは、1488~1490年頃に、イタリアヴェッルーノ近郊のピエーヴィ・ディ・カドーレで誕生したようです。誕生の正確な日付は分かっていません。

数年間は生まれた土地で暮らしています。父親はグレゴリオ、母親はルシア・ヴッツェリオです。ティツィアーノは5人兄弟の長男でした。

父親は優れた市議会議員で兵士でした。ピエーヴ・ディ・カドーレ城の管理者で地元の鉱山も管理していました。祖父や家族には公証人が多くいました。この画家一家が地域で名が知られていたことは当然でしょう

10歳の時、ティツィアーノと弟フランチェスコは、両親にヴェネチアの叔父と暮らすように言われます。ここで、彼は芸術家としての才能を開花させました。到着するとすぐに、兄弟は有名なモザイク画家のセバスチアーノ・ズッカートのスタジオで見習いとして働き始めます

数年後、ティツィアーノはジョバンニ・ベリーニのスタジオへ入りました。ベリーニは、名の知れたヴェネチアの画家で、ジョバンニ・パルマ・ディ・セリナルタ、セバスチアーノ・ルシアーニ、ジョルジオ・ダ・カステルフランコなどヴェネチア学派初代の画家が生まれた場所でもあります。

 

処女作

モロッシーニ城ヘラクレスのフレスコ画がティツィアーノの処女作だと考えられています。聖母子、ウィーン、メアリーとエリザベスは、ベネチアのアカデミーギャラリーに飾られています。

1508年、ジョルジョーネ・ディ・カステロフランコとベリーニの弟子のひとりと共同で制作したフォンダコ・デイ・テデスキのフレスコ画から、彼のキャリアは始まりました。彼らは強く結束していたため、16世紀初めに描かれた作品の違いを見極めるのは困難です。このフレスコ画は、現在壊れた外枠しか残っていません。この作業の中でティツィアーノが任されたのが、正義の寓話の場面です

この2人の画家は、「現代美術」という新たな学派の先駆者とされています。この種の絵画は、より柔軟性があります。言い換えると、ベリーニが続けた格式ばった通式や対称性という特徴をもちあわせていません。

1510年のジョルジョーネの死後、ティツィアーノはしばらく、伝統的なスタイルを続けました。しかし、その後、大胆で表現豊かに筆を使う独自のスタイルを築き上げました。

ティツィアーノが初めて一人で手掛けた絵は、1511年のパドゥバの守護聖人アントニオを描いたフレスコ画です。芸術評論家の中では、このフレスコ画の中では奇跡の出会いが最も優れていると言われています。

 

ティツィアーノの輝かしい人生

1516年、ジョバンニ・ベリーニは亡くなり、ティツィアーノにはベネチア学派のライバルがいなくなりました。60年間、ティツィアーノは議論の余地のない優秀なベネチアの画家でした。また、ティツィアーノはベリーニに貢献したため、上院から奨励金を受けました。

「私があえてラファエルやミケランジェロのスタイルを避けたのは、賢く真似するより、上を目指したからだ」

-ティツィアーノ-

1516~1530年、ティツィアーノはスタイルを変え、自分のスタイルを完成させました。当初の「ジョルジョーネ風」スタイルを捨て、より複雑で幅広いテーマに取り組みます。この時初めて、不屈のスタイルを試しました。

1518年、デ・フラーリ教会の大きな変化として傑作聖母被昇天を描きました。このすばらしい作品は色やスケールにおいてイタリアではユニークで、皆が驚きました。

ティツィアーノは非常に有名になり、絶大な人気を誇りました。この時点で彼は広く認知された画家でしたが、バイヤーが彼の作品を求めるようになったのはこの頃からです

聖ペテロの殉教

1530年、ティツィアーノは最高傑作のひとつを完成させました。それが聖ペテロの殉教で、1867年に破壊されてしまいました。現在残っているものはすべて複製です。過激な暴力と広大に描かれた大木の組み合わせは、バロック様式で、この絵の世界をかきたてるようです

また、同時期に、田園風景にいる若い聖マリアを美しく描いています。さらに、ティツィアーノは、この頃、神話のシーンも描いています。中でも有名な作品、バッカスとアリアドネが、ミューゼオ・デル・パラードに所蔵されています。これらは、おそらく、ルネサンスの異教文化の中でも非常にすぐれた作品でしょう

 

ティツィアーノ

ティツィアーノの莫大な富

1530年、神聖ローマ皇帝カールⅤ世との出会いは、ティツィアーノにとって非常に重要な出来事となりました。皇帝の等身大の絵を当時では画期的なスタイルで描いたのです。

ティツィアーノはすぐに、宮廷で非常に有名な画家になりました。これにより、特権、名誉、称号を得ます。ここから、彼はヨーロッパ中で有名な宮廷画家になりました。

ティツィアーノは、称賛、富、権力を得る方法を知っていたのです。彼の才能は非常に優れたもので、彼の描く絵は、比類のコンセプチュアルな繊細さと美しさをそなえています

富と名声の肖像画

権力のある人がコレクションとして集めた数々の肖像画がティツィアーノの名声を表しています。ティツィアーノの世代で彼ほど多く肖像画を残した人はいませんが、これらの肖像画は、彼の弟子によって描かれたものだとも言われています。

「華やかな色ではなく、良い描写が人物を美しくする」

-ティツィアーノ-

ヴァストのアバロス侯爵は巨額の奨励金を、カールⅤ世は巨額の年俸をティツィアーノに支払っています。また、故郷カドーレに穀物を供給するために取り交わされた1542年の契約からも収入がありました。ティツィアーノはほぼ毎年そこを訪れ、偉大で影響力のある人だと皆から尊敬されました。

ティツィアーノには、マンザの丘近郊にお気に入りの街がありました。ここで、作品のために風景の形や効果を観察しました。ティツィアーノの様々な作品に見られる製作所は、ベルーノ近郊のコロントーラのものです。

 

プライベート

1525年、ティツィアーノは床屋の娘セシリアと結婚します。2人の間には、すでに長男ポンポニオが誕生しており、そしてその後さらに2人の子どもに恵まれました、特に息子オラツィオをかわいがり、後に助手にしています。

1526年頃、ティツィアーノはピエトロ・アレッツィーノと出会い、親交を深めます。ピエトロは変わった性格で、影響力が強く、当時の政治や文化で重要な役割を担っていました。ティツィアーノは彼の肖像画を3回は描いており、そのひとつは、マントヴァのゴンザ―ガ公爵に送られています。

1530年、妻セシリアの死後、ティツィアーノは再婚し娘ラヴァニアをもうけました。不運なことに2人目の妻も亡くなってしまいます。妹オルサがカドーレから引っ越し、家事や子どもの世話を担いました

ティツィアーノの死

ティツィアーノがおよそ90歳の頃、ベネチアで疫病が流行りました。そして、1576年8月27日ティツィアーノは疫病で亡くなりました。長い人生を終えた彼はベネチアで亡くなり、教会で埋葬された唯一の人物です。サンタ・マリア・グロリオーザ・デ・フラーリ教会で眠っています。

彼のお墓は、有名な画家ペサロ・マドンナの近くにあります。後に、ベネチアのオーストリア指導者がカノーヴァに大きな記念碑を建てるよう指示するまで、彼の墓に目印はありませんでした。この記念碑は今でも残っています。

ティツィアーノの宗教画は、祈りを表す真の模範となりました。ティツィアーノの絵には、他の画家が成し遂げることができなかった忠誠心を動かす力があります。さらに、神話を題材とした絵画は、素晴らしい色情の絵を生みました。これらの絵画は、宗教画とは違った方法で、人々の心を動かします。


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  • Portús Pérez, J. (1992). Entre el divino artista y el retratista alcahuete: el pintor en la escena barroca española.
  • Mancini, M., & Cremades, F. C. (2009). Ut pictura poesis: Tiziano y su recepción en España. Madrid: Universidad Complutense de Madrid.

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