アルテミジア・ジェンティレスキ:バロック画家の人生
アルテミジア・ジェンティレスキは、16世紀バロック時代の画家です。他の女性芸術家と同様、彼女のストーリーや作品も長い間隠されてきました。
歴史家や収集家は、ジェンティレスキの作品は男性芸術家に起因すると考えます。彼女の人生や作品は、16世紀の女性軽視を完璧に描き出しています。
現在ジェンティレスキは、イタリアバロックの画家として美術史家に認められています。彼女の絵の圧は当時の典型的な例で、彼女が表した絵の深さはユニークなものです。ここでは、認知に値するこの才能ある画家について学びましょう。
アルテミジア・ジェンティレスキの幼少期と思春期
1593年、アルテミジアは教皇領として有名なイタリア、ローマで生まれました。母親プルデンティア・モントーネは、アルテミジアが12歳の時亡くなっています。父親オラツィオ・ジェンティレスキは有名な画家でした。
ジェンティレスキは、父親から学び、早くに画家としての才能を開花させます。父親の友人には、バロックの革命的画家の最初の門徒のひとりであったカラバッジョがいました。カラバッジョは、ローマの芸術界の中では挑発的、野性的存在でした。アルテミジア・ジェンティレスキは、後に彼の劇的な写実主義第二世代の重要な擁護者になります。
ある時、オラツィオとカラバッジョは、ローマの路上の絵かきの作品を中傷する落書きをしたとして告発されました。この裁判でオラツィオは、カラバッジョがツンベルギア・フラグランスを借りに来た時のことを話しています。この情報から、この偉大な芸術家がジェンティレスキ一家、そして、彼を知っていたであろう長女アルテミジアと近しい関係にあったことが明らかになりました。
アルテミジアは父親や風景画家アゴスティーノ・タッシから学んでいたため、彼女の作品を彼らのものと見分けることが困難な場合もあります。彼女の絵は、父親やカラバッジョと全く同じようにロマン派様です。
彼女の有名な作品に、スザンナ(1610年)があります。この作品は長い間、父親の作品だと考えられていました。また、彼女は、カラバッジョが描いたホロネスの首を斬るユディトの2つのバージョンも手掛けました。
芸術家の手による虐待
1611年、オラツィオはアゴスティーノ・タッシと共にローマのパラヴィチーニ・ロスピギオージ・パレスを雇いました。17歳のアルテミジアに完璧なテクニックを授けるために、オラツィオはタッシを雇ったのです。
一緒に作業をしていたため、タッシとジェンティレスキは2人きりで時間を過ごすことが多くありました。ところが、あるセッションでタッシは彼女をレイプします。アルテミジアはその後、いつか結婚すると信じてタッシと付き合い始めます。しかし、タッシはこの若い芸術家との結婚を拒みました。オラツィオは当時では珍しい決断をします。娘の強姦で、タッシを訴えたのです。裁判は7か月間続きました。
裁判では、タッシと被害者の恥ずべき詳細が明らかになりました。アルテミジアはレイプで処女を失いました。さらに、タッシは妻の殺害を疑われました。
法的処理のひとつとして、アルテミジアはレイプにより処女を奪われたという事実を証明するため、婦人科検査を受けさせられます。また、彼女が真実を語っているか調べるため、ネジで拷問を受けながら証言させられました。
芸術家にとって、このような拷問は非常には打撃が大きいものです。幸運にも、アルテミジアは永久的な指の損傷は避けられました。レイプ後、タッシを殺すこともできたという彼女の熱のこもった証言は、その当時彼女が非凡であったことの表れです。
タッシは有罪判決を受け、ローマからの追放が言い渡されました。しかし、タッシの芸術性を認めた教皇により、タッシは守られ、刑が執行されることはありませんでした。
レイプ後のアルテミジア・ジェンティレスキの作品には、男性に脅される女性や力ある女性がリベンジを求めるものが多く見られます。
フィレンツェでのアルテミジア・ジェンティレスキ
裁判の1か月後、オラツィオはアルテミジアと芸術家ピエール・アントニオ・シアテッシを結婚させました。そして、2人はシアテッシの故郷であるフィレンツェに引っ越します。
フィレンツェで、アルテミジアは重要な委員のひとりとして、カーサ・ブオナロッティに雇われました。この画家の甥は、ミケランジェロの家を記念碑と美術館に変えた人です。
1616年、アルテミジアは、Accademia delle arti del Disegno(絵画アカデミー)初の女性会員になりました。このおかげで、夫の許可を得ることなく絵画の道具を購入し、契約を結ぶことができるようになりました。また、トスカーナ大公国やコジモⅡ世からも声がかかりました。
フィレンツェでジェンティレスキは独自のスタイルを発展させます。17世紀の多くの芸術家のように静物画や肖像画ではなく、歴史を描くことに特化しました。
1618年、アルテミジアと夫の間に娘が誕生しました。アルテミジアの亡くなった母親にちなみ、プルデンティアと名付けられました。同じ頃、アルテミジアは、フィレンツェの小説家フランチェスコ・マリア・ディ・ニコロ・マリンギと恋に落ちます。
アルテミジアがマリンギに宛てた数々の手紙が、2011年フランチェスコ・ソリナスにより発見され、不倫だと認められました。アルテミジアの夫はこの不倫に気づき、マリンギからお金を得るために妻の手紙を利用しました。
その結果、マリンギは一部経済的支援をすることになります。夫のシアテッシは、経済管理に疎かったため、二人は常にお金の心配をしていたのです。
「私の素晴らしい支配で、女性に何ができるかを示そう」
-アルテミジア・ジェンティレスキ-
ローマへ、カラバッジョへ
アルテミジアの不倫の噂と金銭問題により、結婚にヒビが入りました。1621年、夫を残し、アルテミジアはローマへと戻ります。そこでは再びカラバッジョの輪に入り、画家シモン・ヴーエなどの門徒と共に働きました。
ローマでは思ったほど実りがありませんでした。より多くのコミッションを望み、ベネツィアで過ごすことにします。
ジェンティレスキが使用した色合いは父親の作品より明るいものです。カラバッジョにより人気が高まったテネブリズムを用い、これは父親がこのスタイルをやめた後も続けられました。
アルテミジア・ジェンティレスキの後期の作品
1630年頃、ジェンティレスキはナポリへと移ります。そして、1638年、父親が仕えていたチャールスⅠ世のいるロンドンへ引っ越しました。二人は、グリニッジにある妻ヘンリエッタ・マリアのクイーンハウス、グレイト・サロンの天井絵画を手掛けました。1639年、父親が他界した後も数年間、ジェンティレスキはロンドンに滞在しました。
ロンドンで、絵画の女神としての自画像(1638年)を含む有名な作品の多くを描いています。彼女の(人生を父親の伝記に加えた)伝記作家バルディヌッチによると、アルテミジアは多くの作品を描き、すぐに父親の名声を越えたと言っています。
1640年または1641年、ジェンティレスキはナポリに永住することにしました。ここで、ダビデとバテシバの話の複数のバージョンを描いています。晩年についてはあまりわかっていません。1650年に書かれた手紙が残っており、当時彼女は積極的に働いていたと思われます。
彼女が亡くなった日は定かではありません。1654年の終わりにナポリで働いていたとみられる証拠が見つかっています。また、1656年に流行した疫病により亡くなった可能性を示唆する歴史家もいます。
アルテミジア・ジェンティレスキのレガシー
ジェンティレスキのレガシーは逆説的で、複雑です。生前、彼女は尊敬され、認められていました。しかし、死後、歴史家は彼女を記録から完全に外しています。
彼女のスタイルが父親のものと酷似しており、美術史家がオラツィオのものだと誤って判断したというのもひとつの原因です。しかしカラバッジョの研究家として有名なロベルト・ロンギは、20世紀初め、彼女の作品を再発見し、保護しました。
「生きている限り、私は自分の存在をコントロ―ルするだろう」
-アルテミジア・ジェンティレスキ-
残念なことに、彼女の人生や功績の学問性や認知度は誇張され、性的な観点で見られがちです。その原因のいくらかは、1947年ロンギの妻アンナ・バンティがアルテミジアについて書いたセンセーショナルな小説にあります。
1970~1980年代、メアリー・ガラードやリンダ・ノチリンなどフェミニストの美術史家がジェンティレスキについて弁明しています。この美術史家は、プライベートより、彼女の重要な芸術的達成美術史への影響に焦点を当てたのです。
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