学習性無力感:希望のない深い穴
学習性無力感とは、わたしたちが陥る最悪の穴のひとつです。不安症と鬱にとって完璧な温床となります。そしてこれは、アサーティブネスの欠落の結果あるいは原因です (「意味がないなら、自分の意見を出して対立を生み出す必要なんてないでしょ?」など)。死んだ魂の入った空っぽの体にわたしたちを変えてしまいます。
この状況は次のように要約できます。「何したって全部間違っている。」「何をしても意味がない。何の役にも立たないんだから。結果なんかいつも同じ。」
こう考えることで、学習性無力感が起こり始めます。様々な行動・見方を試したものの、結果に変化がない時に、わたしたちは無力感を学習します。結果、状況に対して反応するモチベーションを失います。
もしかしたら、自分がこのような状況に陥っていると気づいたかもしれません。例えば、仕事や人間関係でです。他の人があなたがすべきことを正しいか間違っているかジャッジするような環境です。
それは理性的ではありません。矛盾しています。何であってもあなたがすることは、常に間違っているとされてしまいます。間違っていないときは、今度はなぜそれがオーケーなのかがまるでわかりません。
学習性無力感によってコントロールを諦めるようになる
このちぐはぐな姿勢の裏に、わたしたちは次のような言葉を聞きます。「わたしがあなたが何をするかをジャッジして、ルールも私が決めるの。」他人に学習性無力感を引き起こす人は、相手に影響を及ぼし、説明なしに価値判断を行います。
このように扱われたとき、人はどのような学習をするでしょうか?結果がランダムだから、努力する価値がない、と学習します。何をしても結果をコントロールできないという感覚です。
自分に起こることにおけるこのコントロールの欠落が、苦しみを生み出し制限をします。明らかにそれに対して何もできないからです。
これは感情的虐待の始まりであることも多いです。「あなたが感じることが私が決める。あなたに決定権はない。あなたじゃなくて、わたしがコントロールする。」
去ることは解決策であっても、学習性無力感のせいで困難
マーティン・セリグマンは、とある現象を70年代に発見しました。 倫理的観点から今日行うことができない実験において、セリグマンはショックにさらされていると、逃げようとしていても最終的にはそれに対して受け身姿勢になることを発見しました。黙って苦しむことに屈するのです。
この現象はすぐに鬱の穴に落ちてしまった多くの人の動機や姿勢に影響します。不安症、鬱、モチベーションの欠落は、人のふるまいや姿勢をコントロールします。最終的に、彼らは完全に受け身になります。
変化を起こす機会が巡ってきても、それを見ることができずにただ過ぎ去らせてしまいます。何をしても、どんな方向を選んでも、自分の求める結果が得られないと感じているため、信用も希望も消え去ってしまったのです。
この心理的状況はとても強力です。わたしたちが行動する能力を完全にハイジャックします。別の方法を見つけたり問題を解決するわたしたちの創造性を奪います。問題に対する解決策が見えなくなってしまいます。この破壊的な場所から逃げ出すのはとても難しいことです。
無力感はわたしたちの思考・ふるまい・感情を掌握する
多くの人は、自分に害のある状況から抜け出すことができないと感じます。自分が学習した無気力感に完全に条件付けされてしまいます。無力感がわたしたちの思考・ふるまい・感情を掌握してしまうのです。
これが広がることを防ぐには、問題の根を取り去る必要があります。表面的なことではだめです。「なんでわからないの?」と聞いて、牢獄から出られないでいる人に出るように言っても意味がありません。
こんな風に感じたくはないんです。どうにかしたいと思ているんです。だから、どうやってこんなことになったか理解しなくてはいけません。どうして自分に起こったことのコントロールを放棄したのか?解決策は、彼らに自信を持たせることです。人生のコントロールを取り戻させることです。
失われてしまったコントロールです。彼らを不当に扱った人が盗んでいったものです。しかし、彼らの人生は常に彼らのものです。それを取り戻すのに助けが必要なだけなんです。何が起こったかを理解し、それを受け入れることがはじめの第一歩です。