不確かなものと向き合い、豊かな人生を
生きる上で唯一言えるのは、確かなものは何もない、または、ごくわずかに限られるということです。欧米社会では、どんなことも自分でコントロールできるという考えが蔓延しています。さらに、何事にもすぐに効果的な解決法を見つける必要があります。私達の社会は適応することの重要性を忘れているようです:不確かなものへの対応法を学びましょう。
「不確かなものへの対応」とは:はっきりしないものがあり、即時の解決法はないと理解することです。すべてのものを修復し、答えを探そうと努力することはできます。ただ、考えた後、それは不可能だと分かるでしょう。
答えや解決には時間を要することがあります。また、それらが見つからないものもあります。人間はすべてを知っているわけではありません。知っていることより知らないことの方がはるかに多いのです。
皆同じように思ってはいるでしょう。そんな中、何かが起こっています。不確かなものを受け入れられない人がいます。怒りやストレスを感じています。歩くための地面がないなんて考えられないのです。
「軽蔑を捨て、断言や否定できることは何もないと分かり、初めて、平和を知った。」
-オマー・カヤム-
不確かなものが受け入れられない
不確かなものが受け入れられないのは、認知的閉鎖と呼ばれる状態を必要とする人たちです。「最後の言葉」とも呼ばれます。すべてにおいてはっきりしていたいのです。イエスかノー。白か黒。
このような人達は、はっきりとした答えが出ないと、大きなストレスを感じます。認知的閉鎖は、はっきりしています。「私を愛しているか、そうでないか。」彼らにとって、答えはイエスかノーか、どちらかしかないのです。「イエスでもありノーでもある」という答えが、最も現実味があるという事実を理解できないのです。
不確かなものと向き合えない結果
不確かなものと向き合えない人は、現実を単純化したいようです。今起こっていることに関して限定された考えを持っています。そうか、そうでないか、選択肢二つです。そんな世界観を持つ人は、予想することが難しいのです。今見えているものに対して、新しい考えができません。理解できないものがあること、少なくとも今は難しい、ということを受け入れづらいのです。
例えば、同じ事であっても、状況によっては結果が変わったかもしれないという見方ができません。本を読まない人は、必ずしも、注意散漫で非文化的というわけではありません。誰かがそうしているのには、その人の理由があり、その理由も様々です。
つまり、不確かなものと向き合えないと、共感することができないとも言えます。自分の道でしか世界を見られません。これが「正しい」というものがあるため、違いを受け入れられないのです。そして、恋人や家族との間で、または社会が上手く行くためには、全てにおいて常に意見が一致していなければならないと考えます。
不確かなものと向き合うとは?
正しい答えはないと受け入れることが、不確かなものと向き合うことにつながります。不確かなものと向き合うことのできる人は、すぐに答えが出なくても怒りやストレスを感じることはありません。
事実を受けとめ、今ある情報で、前へ進みます。理解できたことの中から解決法を探します。その中に新たな要素が入ってきても、それに気づき、注目し、実際何が起きているのか理解するのに役立てようとします。
もう一つ、不確かなものと向き合える人がすることは、事実の分析です。表面だけにとどまりません:深い所まで見ていきます。見た目より複雑だということを発見するのです。そうすることにより、はっきりした答えを見出すことは難しいと分かってきます。
面白いことに、不確かなものへの耐性が低い人達は、決断や判断を迫られた時、より確信をもっています。反対に、耐性の高い人たちは、決めるまでに、時間をかけます。行動に移す前に、さらに考えます。矛盾や違いと上手く向き合い、それは人間関係にも反映されています。