自殺、それは残された人にとって消えることのない痛み
自殺とは、メディアがあまり取り上げようとせず、社会がひっそりと、そして毎日闘っている話題です。これは最もタブーとされる話題の一つであり、その理由はこのような悲劇が起こった時に私たちが感じる感情のためでもあります。私たちの愛する人が自分の命を奪ってしまったら、何度そのことを考えようとしても、それを理解することは難しいものです。
私たちの心は、この出来事に対する疑問、疑念、そしてこのような結末を迎えないためにできたかもしれないことでいっぱいになります。愛する人が自分たちの元を去ろうと決めたことを受け止めるのは、人間の心にとって理解するのが本当に難しいことです。
私たちのショックは長く続くかもしれません。暗い状況の中で不信感が生まれ、長い間留まり続けるのです。拒否する気持ちも現れるでしょう。「その人は逝きたくなかったはずだ、きっとなにかが起こったに違いない。死にたくなんてなかったはずなんだから。いや、信じない。親をこんな形で残して逝きたいなんて思うはずがないんだ。」と。
自殺はとても限られた方法で自分を責めたくさせる
私たちは、可能性のあるすべての説明を探し求めます。ただし、愛する人が自分の意志で私たちの元を去ろうと決めたという説明を除いてです。愛する人が意識的に意思決定をし、それに伴う結果を全て受け入れたというものを除いて。こういったことを考えると、その人をこちら側、生きている人の側にとどめておけるだけの重要性が自分にはなかったんだ、という考えに騙されてしまうかもしれません。そうすると私たちは裏切られ、フェアでないと感じ、その瞬間に怒りが生まれます。なぜもっと何かしてあげなかったのか、もっと重要な存在になれなかったのか、と責めたい気持ちになります。
しかし、あなたが愛する人を去らせたのではありません。その人がこの世を去りたいと思ったのはあなたのせいではないのです。あなたはその人の自殺に何の責任もありません。これらすべてが、残された人たちが聞く必要のある言葉です。起こったことについての新しい物語を作り、それを語るために、こういった言葉をまとめていく必要もあります。
責める気持ちは、警告サインを「見る」ことができなかったことから来ることが多くあります。それは愛する人を失うことを避けることができなかったことから来ます。「なぜ気づかなかったんだろう。あの人のそばにいてあげれば簡単にわかるはずだったのに。あの日…あの時…。」私たちはそうやって自分を全く真実ではない場所に置いてしまいます。残念ですが、私たちがもっとしてあげられたことはありません。生きているという苦悩に耐えられなくなった人は、できるときに、どんな方法でも、この世を去らなければならないのです。
残された人が怒り、考えをめぐらせるのはとてもよくあること
これは自分を責めることなしに受け入れるのがとても難しいからです。どうしてもその死の責任は自分にあると感じてしまいます。最初から、真剣に自分の心と向き合わなければなりません。不合理で非現実的な自責の念は、たった今経験した痛みを長引かせ、より辛いものにしてしまう恐れがあるからです。
失った人に対する怒りを感じることも、人間の感情としてとてもよくあることです。「よくも私をここに残して逝けたね。自分の命を奪う前に、私のことを一瞬でも考えたんだろうか。」と。空っぽになった心を怒りのような感情が満たしていきます。説明できないものに対する怒りは、感情のぶつけどころがもっとも難しいものの一つです。誰も責めることができないので、この気持ちを誰にもぶつけることができないのです。
「不確実とは、全ての花びらがちぎられていない花のようなものだ」
―マリオ・ヴァルガス・リョサ―
また、このような経験をした場合、あれこれと考えを巡らせることもほとんど避けることができないでしょう。どのくらいの間痛みを感じていたんだろう。ほんの少しでも後悔する瞬間はあっただろうか。苦しんでいたのだろうか。そして永遠に消えず、気持ちを落ち込ませる、「なぜ?」という疑問。これは簡単には解決することのできない、未解決の問題です。少しでも平穏に生きるためには、たくさん自分の心と向き合うことが必要になります。
他の愛する人に対して恐怖を感じ、人の人生をマヒさせる
恐怖も訪れるでしょう…他の愛する人も同じことをするのではないかという恐怖です。自分の感じる自責の念が、耐えられないほど強いという恐怖です。このような恐怖は、結局多くの人の人生を奪ってしまいます。新たな悲劇が起こらないように、どんな小さな苦しみにも備えようとするのです。
そして最後に、しかし重要なこととして、恥辱があります。多くの人家族がバツ印を付けられたように感じるのです。つまり、その悲劇を防ぐことが「できなかった」という恥です。これは沈黙の中で作られます。こういった死と共にやってくる大きなタブーです。
これは全て自然なことで、私たちが分析し、確認しなければならない人間としての感情です。これらの感情を感じることは自然なことですが、必要のない責める気持ちや恥といった不合理な感情は、確実に取り除かなければなりません。そうすることで、私たちの魂を吸い取っている沈黙についに終止符を打つことができるのです。私たちの魂は話し、表現し、一人ではないと感じることが必要なのですから。
不幸にも自殺に縁のできてしまった全ての方に、愛とサポートを送ります。