ローマ帝国に抵抗した女王:ブーディカ
彼女の名前は勝利を意味し、イギリス諸島でローマ軍と戦うために最大の軍隊を率いました。戦士であり、勇敢で、強い個性を持ったブーディカの歴史について、一緒に見ていきましょう。
紀元後61年、イギリス諸島には、ワトリング街道と呼ばれるローマ軍が建設した巨大な道がありました。この街道は、ウェールズとその他の島をつなぐ目的で作れたものです。ブーディカは、当時にしては長身で、長い茶色の髪と強い体を持つ女性でした。彼女は死に到る毒を飲み、亡くなったと言います。おそらく、娘たちに背中を押されたのでしょう。タキトゥスによると、これが古代悲劇の一つの終わり方です。
この女性は、単なるケルト人イケニ族の伝説的戦士女王ではありません。実は、ブーディカは現地語で“Boudica”と書かれ、ウェールズの指導者ウェルキンゲトリクス同様、イギリス諸島でローマ侵略に対抗する部族をまとめたことでも有名です。この結果、ローマにとって大きな脅威となる存在のリストに名を連ねることとなったのです。実際、歴史家がウェールズの指導者とする人や、ヴィリアトゥス、ハンニバル、アルミニウス、スパルタクスらと肩を並べているのです。時として、彼女の伝説は、敵が残したものと混乱されがちです。
拡大する帝国ローマ
ユリウス・カエサルの有名なウェールズの征服後、ローマ帝国は軍団を連れていける新たな領土や占領地を探し求めていました。そして将軍たちの野望をかなえようとしていたのです。この伝説的な将軍はイギリス諸島の侵略を計画していたため、おそらくケルト人のドルイドの土地にも興味を持っていたのでしょう。しかし、カリグラ皇帝が到着した時にはすでに、必然的な征服は始まっていました。
シェイクスピアのシンベリンは、このときの最初の戦いを舞台にしています。その後、クラウディウス皇帝も戦いを続けます。当時、一部の部族はローマ軍から身を守るために団結していた一方で、将軍Caradawcなどは反乱を起こし、一応勝利と言える結果も出しています。この時、征服者によってテムズ川のほとりに今のロンドンとなるロンディニウムが建設されました。
森の中で戦争は続きましたが、結果はほとんど出ませんでした。そして彼らの運が尽き始めます。
未亡人の女王ブーディカ
ローマ軍と同盟を結んだ王の一人が、ケルト族イケニ族のプラスタグスでした。ネロ皇帝の保護と支援と引き換えに、王は子どもが死んでしまったら、自分の地位と土地を渡すことを約束しました。この後彼の身に何が起こったかは分かりませんが、これが衝突の引き金となってしまいました。女性の王位継承はローマの法律にはないため、娘達が王から合法的に王位を継承することは不可能だったのです。
皇帝がルールを変えることはおそらく簡単だったのでしょうが、プラスタグスの妻のためにそうすることはありませんでした。この時から、ブーティカがどのような人物かをうかがうことができます。未亡人となり、自分の国の伝統に従って自らの持つ権利を主張したのです。しかしこの女王の抵抗に対し、ローマ帝国は攻撃を加え、娘達を凌辱し、中尉を処刑するなどという形で答えました。その間、ローマの同盟国が土地を没収し、伝統的な場所を攻撃していました。
そして、反乱が始まりました。ブーディカにとって、服従という選択肢はなく、逃げることはしませんでした。
ブーディカは、ヴィリアトゥス、ハンニバル、アルミニウス、スパルタクス、ウェルキンゲトリクスと共に、ローマの偉大なライバルと認定されることとなります。
ブーディカの反乱
彼女の名前、あるいはニックネームかもしれませんが、これは当時勝利を意味するもので、自身が経験した侮辱に鼓舞され仲間の元へ馬車で向かう人物でした。また、ブーディカは多数の部族や戦士を自身の元に集めることもできました。さらに、イギリス諸島でローマ軍と戦う勢力を率いたのです。さらに印象的なのは、彼女の馬車に描かれた流れる髪と戦争の絵です。このイメージは、ロンドンで彼女を讃えて作られた像で実際に見ることができます。いうまでもありませんが、ブーディカの敵にとっては、恐ろしいシーンだったことでしょう。
彼女は軍隊と共に、当時ローマ軍に占領されていた島の南部の都市とロンドンを侵略し、奪還しました。ブーティカたちはローマの兵士と全く同じように敵に対して容赦はしなかったと、ローマ軍でさえも言っています。ブーディカは、力のあるヒスパニック軍でも真似することのできない一撃で、容赦なく軍を蹴散らしました。
彼女の勝利のおかげで従う者は増えました。しかし、1年にもおよぶ戦いの後、ローマのスエトニウス将軍が戦いを制することとなるのです。
最後の悲劇
狭く石の多い丘の上で、イギリス兵とローマ兵の割合が1対5という不公平な戦いが行われました。さらに不公平なことに、ローマ兵は非常に鍛えられており、最後に偉大な戦いぶりを見せました。その結果、ケルト族はローマ軍を破ることはできず、その上素早く逃げ、退却しなければなりませんでした。希望はここで終わりを迎えたのです。イギリス軍の犠牲者に対し、ローマ軍と同盟国の犠牲者はたった100分の1だったと言います。
この不可避な結末を迎える前、ブーディカは生きて捕らえられた時に何が起こるかわかっていたので、再び捕らえられるより死を選びました。スエトニウスは負けた女王を讃えなかったかもしれませんが、イギリスにブーディカのような戦略家が現れることは二度とありませんでした。彼女は、裏切り、屈辱、復讐を耐え抜いた人物だったのです。
大きなケルト軍が結成されたことはありませんでしたが、女性の戦士がたくさんいたのは確かです。この女性達は、命、自由、土地をかけて戦ったのです。
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- Manuel Velasco (2005) Breve historia de los celtas
- Tácito (cf. 115-117) Anales
- Vanesa Collingridge (2006) Boudica: The Life and Legends of Britain’s Warrior Queen