「ヴァルネラビリティ」とは、精神的勇敢さの現れ
社会通念とは正反対に、ヴァルネラビリティというのは心理学的に意義深いものです。日本語では「弱さ」や「傷つきやすさ」と訳されるこの言葉ですが、実はヴァルネラビリティは人間としてのリアルさの一部であり、受け入れるべきことなのです。弱い自分を認めることにより、自らの感情面の豊かさを感じられるようになるだけでなく、周囲の環境にもより親密に、そしてより純粋な気持ちで接することができるようになります。
弱さを認めるには、強さが必要になります。自信やタフさが重要視されるこの世界において、完璧さという鎧を脱ぎ捨てる行為は非常に勇敢だと言えるでしょう。ヴァルネラビリティを持ち合わせた人間でいることは、弱虫であることを意味するわけではないのです。
ここで覚えておきたいのが、ヴァルネラビリティは病気ではありませんし、強さや勇敢さが欠けているという意味でもないということです。そうではなく、これは人間の持つ特徴の一つであり、基本的には自らのニーズを繊細に感じ取れるようにしてくれる本能の一部なのです。また、他人の痛みや感情に対して共感性を高めてくれるものでもあります。
“私はただただ感謝の気持ちでいっぱいです。なぜなら、こうしてヴァルネラビリティを持てることは、私は今生きているのだ、ということを意味するからです”
あなたはヒーローではなく、一人の人間だ:ヴァルネラビリティという力
マリオ・ベネデッティはかつて、完璧さとは綺麗に磨き上げられた失敗の集まりである、と言いましたが、ここではただ単に、「人間には過ちや失敗、そして変化を受け入れるのが困難な時がある」という事実を受け入れてみましょう。しかし、実際には心の奥底で恐れを感じていたり悲しんでいたり、不安な時にも、成功や楽しげなムードといった表面上の世界を飛び回るよう、我々は社会によってなんとなく操作されてしまっています。
したがって、文化的な立場からは、感情面そして身体面のヴァルネラビリティは、常にネガティヴで恥ずかしいような意味合いを孕んでいると見られています。完璧さや強さ、そして意志の強さといった要素から離れ、疑念や失敗を過程の一部として受け入れてしまうような人は誰しも、自分自身に対して悪い印象を抱いてしまうことがよくあります。それは、自分は社会が期待している姿、推進している姿に見合っていないのだ、と考えてしまうためです。
一方で興味深いのが、文学や詩の世界、そしてマルティン・ハイデッガーといった作家たちによる実存哲学の世界では、ヴァルネラビリティが必要不可欠で前向きなものとされている点です。ロバート・ストロロウによる『World, Affectivity, Trauma』などの本が、ヴァルネラビリティのような”次元”は、我々の本質の別の一面であることを思い起こさせてくれます。結局、私たちは人間であり、限界もありますし、繊細ですし、いつかは死んでしまうエラーまみれの生き物なのです。
ヴァルネラビリティと強さとのバランス
自らの能力をなんらかの活動やチャレンジの場で披露するのは素晴らしいことですし、他の人に自分の得意なものを見せるのはとても気分の良いことです。しかし、自分には何もかもをこなせるわけではないと認めることもまた、素敵なことなのです。というよりは、それが現実なのですから、そうでなくてはならないとも言えるでしょう。
また、自らの失敗の責任を取ったり、自分の手に負えないような状況で感じる痛みや悲しみを他人に見せたり、今自分は辛い時期にいることや一人の時間が必要な時期にいること、などを誰かに伝えることも美しいことなのです。こういった行為を恥じる必要は全くなく、自分には良い生活を送る価値がないなどと思う必要もありません。なぜなら、自分の強さを受け入れることも弱さを受け入れることも、どちらも個人としての自分の一部だからです。
タフさには心理学的価値はないが、ヴァルネラビリティの価値は高い
タフで完璧な人間を演じることが、必ずしもその人物を頂点に立たせるわけではありません。少なくとも、幸福感やウェルビーイング、尊敬、そして人間同士のやり取りといった場面ではそれが当てはまります。事実、労働の場においても、強さや完璧さなどの特質がトップに立つための唯一の手段だとは考えられていません。
近年、優れた労働環境の中では、繊細さや共感力、そしてヴァルネラビリティといった面が出世のために役立つ可能性があります。これは、これらの能力によって合意に達することが容易になり、全体をより人間性にあふれた労働環境に変えることができるためです。
自らの弱さを認めることで、完璧な自分になることができる
ヒューストン大学の教授であるブレネー・ブラウンは、ヴァルネラビリティとは愛や帰属意識、楽しさ、勇気、共感、そしてクリエイティビティが生まれる場所だ、と指摘しています。では、弱い自分を認めることが、自分の不完全さに繋がると考えてしまうのはなぜなのでしょうか?
自らのヴァルネラビリティを認められないというのは、とても悲しいことです。さらに、感情を伝えたり相手の痛みや楽しさを感じとるために心を開くことができないのは、もっと悲しい事態です。残念ながら、世界に対して自分は競争心があり、打たれ強く、柔軟性があり、失敗を犯さないというイメージを見せつけることにいっぱいいっぱいになっている人もいます。しかしこういった行為は不完全さや不幸のみを表すことになるのです。
勇敢さとは、自らの光と陰、そして強さと弱さの両面をさらけ出すことです。勇気は、これ以上進むことができないと感じた時には減少し、時が来ると湧き上がってくるものです。ヴァルネラビリティの持つ力が人間を作り上げると言えるでしょう。自分自身を受け入れ、他人を彼らのありのままの姿で受け入れることで、より完璧な自分を目指すことができます。これほど心地よい生き方はありませんよ。
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- Brown, Brene (2012). Daring Greatly: How the Courage to be Vulnerable Transforms the Way We Live, Love, Parent, and Lead. Gotham Books.
- Stolorow, RD (2011). Mundo, afectividad, trauma: Heidegger y psicoanálisis post-cartesiano . Nueva York: Routledge