我が道を進んだ人ルイーザ・メイ・オルコット
ルイーザ・メイ・オルコットは、有名な『若草物語』の著者です。『若草物語』は歴史に残る文学で、現在でも人気があります。50カ国語以上に翻訳され、数多く映画化されていることからもその成功がうかがえます。
『若草物語』が文学史に残されるのは、文章が美しいだけでなく、現実的な内容も理由になっています。
この本が出版された時、文学界における女性の存在は男性の影になっていました。『若草物語』は、ロマン主義から離れ、女性の日常という現実主義に浸った作品です。そのため当時出回っていた本とは全く異なっており、ルイーザ・メイ・オルコットの小説はすぐに人気が高まったのです。
「どんなに多くの説教より、説得力のある人の方がずっといい」
-ルイーザ・メイ・オルコット-
さらに、オルコットの本には、根拠のある考えや価値観が込められています。小説の中には、思想家であり運命を自分で決める女性が登場します。これは当時では革命的なことです。また、本の背景には著者の奴隷廃止論や根本的な民主主義的な考えが垣間見られます。
ルイーザ・メイ・オルコットと特別な家族
ルイーザ・メイ・オルコットは、1832年11月29日ペンシルベニアのジャーマンタウンで誕生しました。4人姉妹の次女で、弟がいましたが幼い頃に亡くなり、ルイーザは女姉妹の中で育ちます。
父親は、当時進んだ考えを持った有名な教師であったため、彼女が賢明で自律した女性になったのも驚くべきことではありません。父親エイモス・ブロンソン・オルコットは、教師で作家、超越論哲学者でした。また、母親アビーは好奇心旺盛で決断力のある女性でした。この2人の元でルイーザが知性を刺激され、芸術的な環境で育ったのが想像できるでしょう。
父親は、家庭での娘の教育に全力を尽くしました。主に考え方を教えるという自由な教育方針です。記憶と訓練に基づく指導が基礎であった当時としては革命的な考え方でした。
超越論哲学
ルイーザの父親は、宗教に強く吹き込まれた哲学である超越主義運動に参加していました。その最も基礎となるもののひとつが、人間の深い部分を内省することです。特に彼の設立した学校では、教育者として際立っており、漸進的教育に関心を持っていました。
彼の学校には、顕微鏡、定規などの備品があり、記憶ではなく証拠に基づく教育が行われました。しかし、アフリカ系アメリカ人の生徒を受け入れるという(当時としては)過激な決断をしたために、学校は閉鎖されてしまいます。
さらに、エイモス・オルコットは男女平等にも力を入れ、女性も投票権を与えられるべきだと考えていました。そのために、幼い娘に自分が情熱を注ぐことをするよう応援したのです。そしてルイーザの場合、それが文学でした。
また、将来の作家の創造力にも影響するであろう決断をエイモスはします。ハーバードにユートピア的な共同体であるフルーツランドを建てました。ここでは、都心から離れた場所に複数の人が住み、動物愛護の精神から野菜のみを食べて暮らしました。
しかし貧困に見舞われ、この試みは長くは続きませんでした。そして新たな視野が求められることとなりました。
成功した作家
内戦下、ルイーザ・メイ・オルコットは、家庭教師、仕立て屋、看護師など様々な仕事をしました。そして女性誌に出版を始めます。
父親には、お金のことを考えるより、好きなことをするように言われていましたが、ルイーザの目的は家庭の経済状況を助けることでした。
そして、しぶしぶ『若草物語』を書いたのでした。これまでにすでに数冊の本を書いていましたが、すべて奇怪小説です。彼女が情熱を注いでいたのが、奇怪小説だったのです。ある時、出版者のトーマス・ナイルが、若い女性向けの小説に興味を持っているという話がありました。そこで、ルイーザは、気が進まないながらも、書き始めたのでした。
『若草物語』は、当初から人気がありました。彼女はわずか2ケ月で書き上げたのですが、出版後2週間で2000部以上が売れました。さらに売上は現在まで伸び続けています。ルイーザ・メイ・オルコットは有名になり、お金を得て、家族を貧困から救いました。
ルイーザは生涯独身でした。母親の死後、ルイーザが家族の長となり、1888年3月6日に息を引き取りました。『若草物語』は、自伝的小説だと言われています。真髄を捉えた小説のひとつとして歴史に残り、今後衰えることもないでしょう。
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Alcott, L. M. (2018). Louisa May Alcott. Hombrecitos.