暴力ではなく愛情が教えてくれるもの

· 2017年10月10日

「子供がふざけているのをやめさせるには、適切な時に叩いて叱ることだ」と信じている人に読んでもらいたい記事です。普通の人々がよく使う言葉をそのまま使いました。学校、遊び場、公園、社会的ネットワークの中で、私が聞いた言葉です。 また、どれだけ悲しいことかを表していると思うのであえて言います。

子供たちが口を出すことを許されない教育モデル、親を惑わせ子供たちに混沌を生み出す模範が様々あります。相対主義に左右されるバベルの塔のような形です。すべてがいいことも、すべてが悪いこともありえます。歌であるように、すべて時と場合によります。

すべてに疑問の余地があるわけではありません。他の状況と同じように、教育には決してわたってはいけないラインがあります。その一つは暴力です。

叩いて叱ることは暴力です

「子供を殴ってはいません。行儀よくして誰がボスかわからせるために、時々たたいて叱るだけです。」「子供より私のほうが傷ついています。」「 あまりしたくないけど、どうしようもない時もあります。」

まず、どんな種類のものであっても、「暴力は目的を達成するために使える」と子供に教えてしまったら、それこそ子供が学ぶことなのです。 

私たちの行動によって子供たちは教育を受けます。私たち自身が見せる例ほど早くよく教育するものはありません。

自分の大切な人を叩きたくはないですが、指導者、親、教育者がそうするのを見ると、選択肢として叩くことも考えます。親は自分のことをすごく愛しているのに、暴力を行使します。それなら、そんなに好きではない人に暴力をふるうことは悪くないですよね?

「他に選択肢がない時もあります。」このフレーズは、暴力をいらだちと結びつけます。そのため、この行動には他の方法で目標を達成できなかったいらだちが見られます。 その裏には怒りが隠れていることも多くあります。蔑むべき何かを抱えているためです。そのため、解放されるエネルギーである感情が強く出ます。

ブランコに乗る子供と親の影

叩くことは悲しいこと

叩くことが悲しいのは、痛みを伴うからです。恐怖を生み出すからです。そして涙を生み出すからです。何の教訓も残さず、痛み、恐怖、涙をいっぺんに引き起こすこともあります。この罰は他の罰と同様、ネガティブなもの、するべきではないことにフォーカスされています。たたくことは、他にどんな振る舞いができたかを教えてはくれません。クラスメートや友達をたたいてはいけないと教えてくれるかもしれませんが、非難されたりネガティブなコメントをされたとき、どのようにふるまえばいいかは教えてくれません。

こうすることで、子供は叩くことから、相手を脅したり、差別したり、孤立させたり、侮辱したりするようになるかもしれません。そしてこれらのふるまいに対して、怒鳴られたり、叩かれたり、なぐられたりするだけで、どうやって振舞うべきかは分からないままになってしまいます。

「経験」から暴力を容認する

よくあるコメントにはこんなものもあります。「ぶったけど、大丈夫だった」

幸運なことに、あるふるまいの「お陰」ではなく、あるふるまい「にもかかわらず」、人々はそれなりに大丈夫だったりします。おそらく、教えてくれる人がいたか、お手本になるひとがいたたため、どうやって物事が行われるべきかを学んだのではないでしょうか。交渉の道具として暴力を使わないということです。

これは問題以外の何でもないということを覚えておいてください。幸運にも、たたかれることでトラウマを受けることは少ないです。しかし、ここで私がお伝えしたいのは、暴力を使わずに子供を教育することはできるということです。さらなる努力、忍耐力、振り返りと子供との時間が必要です。充実した時間とは、仕事、家の掃除、アイロンがけ、買い物の後の余った時間ではありません。

一緒に遊ぶ母親と子供

わたしたちの感受性のバリアを超えてしまうものではなく、子供たちがすることに注意を向ける必要があります。それは簡単ではありません。悪いことをした時や私たちの忍耐を試しているときだけではだめです。

これを行えば、たたくことはなくなります。ただ単にたたく必要がなくなります。曲がりすぎてしまった木の幹をまっすぐにするのに、急進的な措置を取る必要はなくなります。代わりに、成長した枝の先まで愛情でまっすぐにしてあげます。

誰も傷つけることもありません。考えてみてください。愛情より美しいものがありますか?それに、子供たちにも子供たちなりに叩かれることより大切なことがあるのです…