リヒャルト・ワーグナー:苦しんだ音楽家の人生

2019年8月27日
ワーグナーは、音楽界に変化をもたらし、20世紀の多くの作曲家に影響を与えました。この音楽家について、そして、何が彼を無類にさせたのか学びましょう!

リヒャルト・ワーグナーは、大きな音楽的動向に影響した、時代を象徴する作曲家です。ワーグナーが作曲法に与えた影響は、管弦楽法やメロディー、ハーモニーの中に証拠として残っています。

彼の考え、理論、ライフスタイルは、ファンと敵を生みました。彼は論争の的となる人物でした。音楽界において、ワーグナーのオペラには、音楽的調の明らかな希薄化が含まれており、それが歌とチャントの線引きをあいまいにします。

ワーグナーの音楽は、勇壮に支配された世界へとあなたを導きます。彼の曲はあなたの耳をつかみ、ステージで展開される物語へとを誘います

 

初期のリヒャルト・ワーグナー

1813年5月22日、リヒャルト・ワーグナーはライプチヒの貧しい家庭に誕生しました。母親ロジーネ・ペッツはパン屋の娘で、父親カール・フリードリヒ・ワーグナーは警察書記官でした。ワーグナーが幼い頃、発疹チフスが流行し、父親は亡くなりました

その後、母親は再婚します。ルードヴィヒ・ガイヤーが義理の父親になりました。ガイヤーは、俳優、歌手、絵描きでワーグナーの人生に影響を与えた最初のアーティストの一人です。劇団で働いていたため、家族はドレスデンに引っ越すことになります。

リヒャルト・ワーグナー 苦しんだ音楽家 人生

1917年、ワーグナーはドレスデンにある学校ヴィツェホッフカントア・カール・フリードリヒ・シュミッツに入学します。1822年、同じくドレスデンにあるクロイツシューレ(十字架の学校)に通います。14歳までそこで学び、ピアノのレッスンを受け始めたのもこの時期です。

リヒャルト・ワーグナーは15歳になるまでリヒャルド・ガイヤーの下で暮らしていました。しかし、1828年1月21日ライプチヒにあるニコライシューレ(ニコライ派)に入学した時、彼は自分の父親の名字に変えました。

 

若い頃の悲しみ

その数やワーグナーの早期の作曲の種類から、彼がクラシックを含む幅広いジャンルの音楽を作ったことが分かります。

1833年、20歳の頃、ヴュルツブルクの合唱指揮者として仕事を受けたのが、プロとしてのキャリアの始まりです。この時期、彼のプロジェクトのすべてが低予算で、聴衆は地域の人でした。オーケストラの指揮者をしながら、彼は最初のオペラ「Die Feen(妖精)」を書きあげます。しかし、これは彼の死後5年経過するまで演奏されることはありませんでした。

3年後、ワーグナーはミンナ・プレーナと結婚しましたが、あまりうまくいきません。そして、革命的な音楽的アイデアを膨らまし始めている頃、オペラをいくつか書きました。ワーグナーの理論はヒトラーやナチスにもいくらか影響したとも言われ、イスラエルではいまでも禁止されている曲がいくつかあります。

ワーグナーにとって、当時は特に苦悩の多い時代でした。プレーナとの結婚は問題の解決にはならず、また、経済的問題も抱えていました。さらにギャンブルやアルコールにはまり、それが経済的に回復することを難しくさせます。

1839年、ワーグナーは莫大な借金により国を追い出され、パリへ移ります。3年後の1842年までドイツに戻りませんでしたが、パリでの生活は失敗でした。一度も自分の曲を披露することができなかったのです。他の作曲家の作品を修正する仕事をしましたが、ここで名声を得ることはできませんでした。

 

作家としてのリヒャルト・ワーグナー

ワーグナーは優秀な作曲家というだけでなく、作家など他の芸術にも挑戦しました。1840~1842年、彼のもっとも重要なエッセイと言える作品を出版することになります

人生を通して探求した歴史的、理論的話題に触れています。ワーグナーは政治的評論家でもあり、ドイツ紙でパリの音楽イベントの批評を多く書いています。また、より「ドキュメンタリー」的なものも書いています。

「宗教が人工的になった時、芸術はそれを救う義務がある。宗教が私達に文字通り真実だと信じさせる象徴が、実際は比喩的であることを芸術は示す。芸術はこれらの象徴を理想化し、それに含まれる奥深さを明らかにする」

-リヒャルト・ワーグナー-

彼の人生のある部分に関しては、曖昧であることをここで指摘しておきましょう。自伝「Mein Leben (私の人生)」にある多くの矛盾が、この原因の一部となっています。

この自伝には、ワーグナーの誕生から51歳までが書かれています。非常に主観的な本で、自我が全面に表れています。このために、ワーグナーの人生がどのようなものであったか、はっきりと明示することが難しいのです。1865年、彼の恩人であるバイエルンのルートヴィッヒⅡ世に頼まれ、最終的にこれを書きました。

 

故郷へ帰る

オペラ、マイヤベーアを演奏し、ワーグナーはドイツでもっとも有名な作曲家になりました。運よくこの演奏の数日後、王立の楽長(ロイヤル・オーケストラ指揮)フランチェスコ・モルラッキが亡くなります。1843年2月2日、ワーグナーは彼の後を継ぎます。この職で政治的名声を獲得し、創造性と運営性を織り交ぜるプロになったのです。

ワーグナーの芸術的興味は、すぐに彼の政治活動と結びつきます。劇場を反動的社会の鏡として作用させられると考えたのです。まず、劇場を変えることにより、社会を変えることができるかもしれません。そこで、ワーグナーは破壊的政治に興味を持ち始めました。

ドイツのナショナリズムと連携します。彼の考えは、オペラの構成や彼の書いた神話の登場人物のようにはっきりしたものでした。この時期の彼の作品に見られる共通点は、ドイツの植民地に関するものでした。

「もうワーグナーを聴くことができない。ポーランドを征服したくなる」

-ウディ・アレン-

 

政治的変化と恩人バイエルンのルートヴィッヒⅡ世

1849年、不安定な政治情勢はドレスデンでの革命につながりました。これにより、ワーグナーのロイヤル・オーケストラ指揮者としてのキャリアが終わります。革命の直後、彼は指名手配され、スイスへ移ります。そして、亡命者として11年間過ごします。

ここで、彼は窮地に陥ります。ドイツ音楽界で働くことは不可能で、収入も自分の作品を演奏するチャンスもほとんどありません。

1864年、借金をしている多くの人から逃げ、ワーグナーは(チューリッヒ近くの)マリアフェルドに住みます。そこで、彼のファンであるバイエルン王ルートヴィッヒⅡ世から、ワーグナーは厚遇と経済的援助を受けます。そして、この恩人の支援もありワーグナーは忠誠行進曲を書きました。

1865年、ドイツ、ミュンヘンで代表曲であるトリスタンとイゾルデを演奏しました。その1年後、ミンナはドレスデンで亡くなり、ワーグナーはジュネーブに永住します。王の経済的支援のおかげで、ワーグナーは資金を心配せず、オペラを書くことができたのです。

リヒャルト・ワーグナー 苦しんだ音楽家の人生

 

バイロイト

数年後、ワーグナーはワーグナー教会を作り、同じ名前で祝祭を始め、これは今でも続いています。59 歳の誕生日にバイロイト祝祭劇場の建設が始まりました。資金を集めるため、ドイツ中でコンサートを行い、ルートヴィッヒⅡ世の支援もあり1874年に完成しました。

さらに、バーンフリードと呼ばれる別荘をバイロイトに建てることになりました。残念なことに、完成の数年後には、劇場は莫大なお金を失います。ワーグナーは資金を得るために、様々なコンサートを開催し、損失を補いました。しかし、この頃、彼は心臓病を患っていました。

 

ワーグナーの死と彼の遺産

1881~1882年、リヒャルト・ワーグナーは複数回心臓発作に見舞われます。1883年2月13日、この有名な作曲家はヴェネツィアで亡くなりました。遺体は別荘バーンフリードの庭に埋葬されています。

ワーグナーの四部作Der Ring des Nibelungen(ニーベルングの指環)」は、間違いなく彼の傑作でしょう。ラインの黄金、ヴァルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏の4つのオペラで構成されています。この四部作はトリスタンとイゾルデ、ニュルンベルクのマイスタージンガー、ローエングリン、タンホイザー、さまよえるオランダ人と共にバイロイトカノンと呼ばれます。

すべてが演奏されたのは、1876年になってからです。それから、オペラのカノンすべてがドイツ、バイロイトで行われる祝祭で毎年演奏されています。

ワーグナーの考えを支持する人は批判する人と同じくらいいます。これまでの劇場より複雑なバイロイト祝祭劇場と共に残った彼の遺産は、バイエルンのルートヴィッヒⅡ世の手厚い支援のおかげで存在します。現在、この劇場は、天才的で時代にこだわらない彼の思い出として、ワーグナーの作品のみを演奏するためにあるのです。

 

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