私の感情を非難する資格は誰にもない

· 2017年10月13日

私の感情を非難する資格がある人はいません。どんな人でも悲しくて涙が出たり、うれしくて涙が出ることはあります。こころが壊れて何千もの破片に散らばっても、なんとか普通に生活しようとした経験は誰にもあります。それはおかしくも何ともありません。しかし時に、自分が感じるべき感情とは違う感情を抱いているという意見を受けることがあります。そんなとき、罪悪感が生まれてきます。

あるシチュエーションごとに、人々が「感じるべき」とされる感情の特徴があるようです。例えば、子供の誕生は一般的に喜びであるととされます。新しい命は、笑顔を作り出す理由になります。9か月間待ち続けるのはもうおしまいです。しかし、出産に立ち会った経験がある人なら、必ずしも母親が喜びを浮かべるとは限らないということをわかっているかと思います。

同じことが、お葬式や死に言えます。欧米では、大事な誰かを失うことは悲しいとされています。なみだ、悲しい表情、痛みを表すことが論理的であると理解しています。しかし、すべての文化で同じように当てはまるわけではありません。そう考えると、この喪失に対する感情は、私たちが考えるほど自然ではないかもしれないのです。

…わたしたちの感情を非難する資格は誰にもありません。

女性の様々な感情

感情と防衛メカニズム

家族の一員を失った家庭(交通事故、自然災害、テロなど) をサポートしたことがある専門家は、多くの人はただショック状態になると話しています。彼らが受ける感情の衝撃が大きいために、一切の感情をブロックして防衛体勢に入ってしまうのです。

泣きたい、感じているものをすべて解き放ちたいと思っていても、それを抑えてしまいます。自分たちで発動した防衛メカニズムを克服することができなくなってしまうのです。

あなたも、ベッドやテーブルの角にひざを打ち付けてしまったことがあると思います。ぶつけた衝撃を感じ痛みを感じ出すまでに数秒かかるでしょう。この数秒の間に、これらからくる痛みに精神的に準備します。

これは、上記の状況に似た現象です。喪失の衝撃が起こっても、痛みがまだ届いていないということです。代わりに、人々はただ空虚感、はかなさを感じ、これが罪悪感と恐怖を同時に生み出します。

否定しているときも、痛みを感じているように見えなかったり、痛みを分離しているように思われます。喪失を否定すると自動的に悲しみの意識的な部分を排除してしまいます。このような人は、落とした皿のことや、5分遅れたことですぐ泣いたりします。でも、それは本当の痛みの理由ではありません。本当の理由を別物に置き換えているのです。

欠如した悲しみ、期待された感情

出産の例でお話ししたように、悲しみだけが思いもよらないときに欠落するわけではありません。喜びのようなポジティブな感情にも起こりえます。達成するために一生懸命戦ってきた夢があるとします。その夢にたくさんの時間を費やしてきました。達成した時、とても幸せに感じるかもしれません。しかし、空虚感や悲しみを感じてしまう可能性もかなりあるのです。

20世紀の哲学的な悲観主義の大部分の基礎となる矛盾を欲望が隠してくれます。その欲望が満たされたとき、矛盾は消えるか、軽減されます。

愛に関して見てみましょう。人の瞳が輝き、喜びを発しているところを想像するのは簡単です。しかし、同じくらい一般的なもう一つの現実があります。喜びに満ち溢れた恋人が、実はストレスを感じているときです。それは、 自分の一番いいところだけを見せなくてはいけないと思う理想化のステージにいるためです。

これは、逆に喜びを逃がしてしまう緊張状態を生み出します。それが耐えがたい疑念に変わります。どこにいるの?なにをしているの?1時間前より愛してくれている?それとも少し愛が薄れた?

本手と建前。リンゴの気持ち

私たちが感じていることを非難する資格は誰にもない

感じることと期待されていることの間の不協和音は、一部の人が感じてしまう罪の意識でなければ問題ありません。しかし、愛する人を失っても泣かないひとは、罪悪感を感じている場合があります。母親になる圧倒的な喜びを感じられていない母親も、同じように罪悪感を感じている可能性があります。

その人が人間らしく感じていないことは、上記の状況と同じくらい害があり、罪悪感にプラスされてしまうこともあります。自分は実はサイコパスだから悲しみを感じられないんだ、と考えるかもしれません。感情のない人間です。

社会からのコメントはあまり助けにはなりません。はじめの1カ月どのように育てられるべきかを命令することができるだけの見識があると思っている「代理母」が、生まれたばかりの子供の周りにはあふれています。かれらの助けはうまく行われれば大きなサポートになります。しかし、誤って行われてしまった場合、母親の自尊心を奥深くに沈めてしまうおもりになってしまうだけです。

課された罪悪感

悲しみを感じていないときに対して批判的なコメントをする人もいます。愛する人の喪失、生き続けていく戦いに苦しんでいるときなどに起こり、彼らはそれを耳にしなくてはいけません。「あんなに愛しているといっていたのに、2日後にはパーティーに行くなんて。」「次の日に仕事に行くなんて、私ほど亡くなった人のことを愛していないんだ。」 これらの言葉は、非常に不公平です。しかも、とても厳しい言い方をされがちです。私たちが感じていることで私たちを非難する資格は誰にもないということを忘れてしまっているのです。

いずれにしても、私たちの感情的な世界は個人や特定の状況にとても敏感です。それゆえに、私たちが感じていることで私たちを非難する資格は誰にもありません。私たち自身にもありません。感情は、私たちをいい人にも悪い人にもしないということを覚えておいてください。私たちの行動、ふるまいは、実際に感じていることと程遠いことがあります。だからこそ、他人や自分に罪悪感を感じさせることに意味はないのです。