愛にサイズはない:心は適応する

· 2019年2月21日

愛のことになると、私達の心や価値観はその愛に適応します。本当に大切なことは二人が愛し合っていることであり、世間が二人のことをどう思うかではありません。二人がどれくらい一緒にいるかや、相手がマリ出身で自分がポーランド出身だということ、相手は背が高くて自分は背が低いこと、相手は痩せていて自分はそうじゃないこと・・・なんてことは誰も気にする必要のないことです。なぜなら、情熱はサイズとは関係なく、人の批判を真に受ける時間なんて持ち合わせていないからです。

この際認めてしまいましょう。私達は、違うということが人を不愉快にする社会的現実に暮らしていることを。型をあえて破り、期待や普通から外れて生きる人は誰でもすぐに指を指されます。彼女が彼よりもずっと年上だと、まだまだ色々と囁かれてしまう社会です。幸せで陽気な若い女性が高齢の男性と手をつないでいたら、その女性の心には愛などなく、ただ欲望だけがあると思われるような世界に暮らしているのです。

「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」

―アントワーヌ・サン=テグジュペリ―

みんながみんな、手を握り合っている二人が本当は何を想っているのか分かるわけではありません。陰口をたたく人とは違って(通常、こうした人達は面と向かって言う勇気がないので)、この2人は幸せ以外は何も感じていないかもしれません。一人が背が高くてもう一人は背が低いなんて、二人が同性だなんて、あるいは一人が100キロでもう1人はめちゃくちゃ痩せているなんて、関係ないのです。二人は偏見という氷山を真っ二つに割り、慣習という大西洋を進む砕氷船のように道を歩いて行くのです。

少なくとも、そうであるべきです。

膝を寄せ合うカップル

偏見など関係ない愛、勇気ある愛

ミルドレッドとリチャード・ラビングは激しい恋に落ちました。その時、ミルドレッドは11歳、リチャードは17歳でした。2人がとても若かったということに誰も異は唱えませんが、問題はそこではありません。時は50年代、バージニア。ミルドレッドはラッパハノック族の黒人の男女の間に生まれた娘でした。

一方で、リチャードはヨーロッパ人の子孫です。当時、人種統合法というひどい法律が施行されていました。それは白人と「有色人種」を差別した恥ずべき法律で、白人と有色人種は結婚できないことになっていました。もし結婚すれば、選択肢は2つしかありませんでした。投獄か国外追放です。

ですが、2人の愛はそうした困難で息絶えることはありませんでした。1958年、ミルドレッドが18歳になった時、二人は結婚することにしました。1年後、ミルドレッドが妊娠し、隣人がそのことを通報したため、2人は引き離されてしまいました。リチャード・ラビングは投獄されました。この状況を必死で何とかしようと、ミルドレッド・ラビングが感情に訴える勇気ある手紙をロバート・ケネディに書くことを決意したのは1964年のことでした。ロバート・ケネディはミルドレッドをアメリカ自由人権協会(ACLU)とつなげてくれたのです。

3年後の1967年、ラビング夫妻の事件は市民権において歴史に残る勝利を収めました。最高裁判所は次のように述べました。「人種差別が記されたこれらの法令というあまりに支持不可能な根拠に基づいて、この根幹となる自由を否定することは、間違いなく全米国市民の自由を奪うものである。」

ミルドレッドとリチャード

この話でショックなことがあるとすれば、それはこの事件が起きたのがたった50年前だということです。もう一つの驚くべき事実は、こうした正しい方向へと推し進める歩みは、ちょうど同性婚の合法化のように、勝利を手に収めるまで実に長い道のりがかかる偉業だということです。そして、そうした偉業の全ては実にドラマチックであり、その裏には悲劇の物語がいくつも隠れているのです。

ですが、たとえ信じがたいことであっても、同性婚や別人種同士で結婚したカップルはどちらも未だに偏見や静かな批判の目に苦しんでいることが多くの研究で分かっています。

心は違いも批判も見えなくする

「愛は何ものにも勝る」とはアントワーヌ・サン=テグジュペリが「星の王子さま」で述べた言葉です。それは、私達がただ同じ方向を向いているということではありません。毎日、お互いの目を見て、「カップルである意識」を育まなければいけません。強く幸せな関係の特徴である4つの「C」に投資しなければいけません。その4つのCとは、コミットメント(commitment)、協力(cooperation)、コミュニケーション(communication)、そして親密さというコミュニティ(community)です。

この4つがあれば、カップルは批判や偏見といった社会の障壁を超えていくのに足りる強さを見つけることができるのです。なぜなら、もし本当に悲劇的なことがあるとすれば、死の床で後悔することがあるとすれば、それは自分が勇敢でなかったこと愛せるとき・愛すべきときに愛さなかったこと、そして、2度と訪れることなどほぼない、その機会を掴まなかったことです。

心は、自分の周りにある違いも批判も見えなくさせるほど、勇敢でなければいけません。恋に落ちるのに年を取り過ぎているなんてことはありません。たとえ、「その年で意味ないでしょ」と子供に言われることがあったとしても。ただ友達が「あの人、変」「あの人、太ってる」「あの人はあなたにお似合いじゃないよ」と言うからといって、気になる人を諦めたりしないでしょう。

指を絡め合う

何が自分の心にしっくりくるのか、何が自分の心を温めてくれるのか、何が自分の魂を癒してくれるのか、何が自分を笑顔にしてくれるのか。知っているのは自分だけです。私達は、恋人と手をつないで、偽善の海を進む砕氷船のように、風などなくとも飛べる鮮やかな凧のように、社会を歩んでいくのです。