現代聖人モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロ

16 8月, 2020
モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロは、長い間「アメリカの聖人」として知られてきました。殉教者とされ、セシリア・フローレスと言う名の女性を救った奇跡が認められています。

モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロは、サルバドール人として、中央アメリカで初めてカトリック教会から聖人と認められた人物です。また、第二バチカン公会議後、殉教者として認められた最初のカトリック教徒でもあります。彼を讃えているのはカトリック教徒のみでなく、英国国教徒、ルター派、無信仰の人も同じです

1979年、イギリス議会はモンシニョール・アルヌルフォ・ロメロの名をノーベル平和賞候補に挙げました。しかし、この年受賞したのはカルカッタのマザーテレサでした。また、2018年には司祭は教皇フランシスにより正式に認められています

モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロは、生前も伝説とされ、死後も讃えられ続けています。彼の善心と勇気は素晴らしいものでした。人権を強く擁護し、侵害した者は説教壇から直接的に非難しました。日曜ミサの最中の暗殺は、エルサルバドルの非常に残酷な内乱の引き金のひとつになったと考えられています。

モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロ

モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロ:初期の仕事

モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロは、1917年8月15日エルサルバドルのサンミゲル県シウダード・バリオスで生まれました。父親は電子技手、母親は専業主婦の貧しい家庭で育ちました。子どもの頃の友人によると、彼の宗教への献身は幼い頃に始まったと言います。毎朝教会へ向かい、家族のためのお祈りをしたそうです。

小学校を出ると、大工兼音楽家になりました。そして13歳の時、神学校に対する興味を祭司に話しました。家庭が低収入のため難しかったのですが、クラレチアン会の協力おかげで、すぐに夢は叶えられました。

家族は貧しく、神学校を続けることは簡単ではありませんでしたが、彼の努力と知性は素晴らしいものでした。その結果彼はローマへ渡り、勉学を続けるひとりに選ばれました。イタリアでは、後にパウロ6世となる人物の元で学びます。

上り下りの多い人生

モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロの人生には、あまり知られていない話があります。これは、彼が故郷へ帰る時の話です。ロメロは、マルケス・デ・コミラスと呼ばれる船に乗り、スペインを出ました。1943年のことで、ヨーロッパは第二次世界大戦の真っ只中でした。

船がキューバに停泊した時に彼は逮捕され、「強制収容所」へと連れていかれたのです。ムッソリーニ率いるイタリアとフランコ率いるスペインから来たため、信頼されなかったのです。ドイツ枢軸のスパイではないと信じてもらえるまで、127日間拘留されました。

メキシコ滞在後、1944年、彼はついにエルサルバドルに帰りました。故郷に戻った彼は、もっとも弱い立場にある人々のために働きました。また、教会での仕事も成功し、1977年2月3日サンサルバドルの大司教になりました。この頃、この国ではすでに政治の内的緊張が高まっていました

モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロ

ラテンアメリカの殉教者

宗教に関し、モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロは保守的であったと考えられがちです。しかし、祖国で行われた不正には黙っていない敬虔なカトリック教徒でした。そのために、自分の説教を人権侵害を非難する場に変えました。

当時、多くの宗教家が殺害されていましたが、その理由のほとんどが貧しい人の味方になったためでした。当時、犯人が罰せられることはありませんでしたが、ロメロは教会でこの行為を非難し続けました。この状況を非難するのに、教皇パウロ6世を聴衆につけ、ローマ教皇の支援を受けました。

しかし数年後、新しい教皇パウロ2世に話をしにいった時、彼は拒絶されました。ロメロは革命的な司祭で、バチカンではあまり歓迎されていなかったのです。また、教皇は彼の主張に疑問を抱いていました。

完全に拒絶され、モンシニョール・ロメロはエルサルバドルへ帰りました。1980年3月24日、自分の教区でミサを開いている時、複数の武装した男性に撃たれ死亡しました。

これは祖国に衝撃を与えた事件で、75000人以上の死者、およそ7000人の行方不明者が出た内乱の始まりとされています。現在、モンシニョール・アルヌルフォ・ロメロは、ラテンアメリカの偉人の一人になっています

SALCEDO, J. E. (2000). El martirio de monseñor Oscar Arnulfo Romero. Theologica Xaveriana, (133), 115-118.