キティ・ジェノヴィーズ事件:誰にも助けてもらえなかった女性

キティ・ジェノヴィーズ事件:誰にも助けてもらえなかった女性
Valeria Sabater

によって書かれ、確認されています。 心理学者 Valeria Sabater.

最後の更新: 21 12月, 2022

当時、キティ・ジェノヴィーズさんは28歳で、ある日仕事帰りに突然現れた男に背中を数回刺されました。その後、男は彼女を暴行し、49ドルを奪っていきました。これは1964年の3月13日に起こった事件です。ニューヨークタイムズ紙によると、少なくとも38人の近隣住民が30分以上にわたる彼女の叫び声を聞いたと言われていますが、誰も何もしなかったそうです。

それはまさに、人間の持っている最も深い闇です事件当時、やっと誰かが窓を空けて、「彼女から離れろ!」と叫びました。犯人のウィンストン・モースリーは数分間の間彼女から離れました。その間彼女は近くの建物のエントランスの方へ傷だらけになりながら移動したのです。

「世界は危険な場所だ。それは悪い人がいるからではなく、それを見ながら何もしない人がいるからだ。」

-アルベルト・アインシュタイン-

しかし、誰も彼女を助けることはしませんでした。当時、彼女を目撃した人は特に問題ではないと思っていて何もしなかったのです。彼女はなんとか逃げ出したにもかかわらず、誰も助けることが無かったのでモースリーは再び彼女を見つけ、彼女の人生を終わらせたのです。数日後、ニューヨークタイムズ紙がこの事件での人の無関心さ、沈黙、非人道さついての長い記事を発表し、ニューヨーク全体が固唾を呑みました。

この記事はまるで、行動しないと決断した人、目をそらす人、隠れる人、助けてと泣いている人を無視する人など、無責任な社会の心理学的検視のようなものでした。

そして、このキティ・ジェノヴィーズ事件をきっかけに、多くの人間の考え方や観念が変わり、心理学の分野における新しい理論提唱の貢献にもなりました。その理論について少し見てみましょう。

キティ・ジェノヴェーズ事件

キティ・ジェノヴィーズと社会の反応

ウィンストン・モースリーはエンジニアで、結婚しており、子供も3人いました。彼が強盗で捕まった際、キティ・ジェノヴィーズさんと他2人の若者の殺人の自白まで時間はかかりませんでした。

昨年、彼は刑務所と精神病棟で暴行を犯した後、81歳で刑務所の中で亡くなりました。このことから、精神科医は、彼はネクロフィリア(殺人の後の性的行為、屍姦)のトラウマに苦しんでいたと結論づけるでしょう。

彼女は集団意識によって誰にも助けられず亡くなりました。何もしなかった38人の目撃者の前で殺されたのです。

当時、メディアはこのように報道しました。また、当時のニューヨークタイムズ編集者のA.M.ローゼンタールが書いた本、「38人の沈黙する目撃者 キティ・ジェノヴィーズ事件の真相」の中でも同じように表現されています。

しかし、2007年に出版された「American Psychologist(アメリカン・サイコロジスト)」という雑誌に掲載されていた研究によると、このキティ・ジェノヴィーズ事件は上記のメディアによって誇張されていたという事実があったことを知っておくべきです。

2015年に公開されたドキュメンタリー映画、「The Witness」(目撃者)では、キティ・ジェノヴィーズさんの兄弟が一体何が本当に起こったのかを調査する様子が見られました。

結果はとてもシンプルなのもでした。実際には誰も何が起こっているか見えてなかったのです。警察に電話した人もいたのですが、しっかり見えていないが為、状況を上手く説明出来ず、無視されてしまったというのです。

キティ・ジェノヴェーズ殺人犯

ジェノヴィーズ効果、または「責任分散」

この事件により、心理学者は「責任分散」という理論を唱えることが出来ました。どういうことかというと、実際に人々がキティさんへの反抗を見たかどうかや警察に電話したのか、また、ニューヨークタイムズ紙が説明したように何人の目撃者がいるかどうかは関係ありません。

一番の疑問は、なぜ誰も彼女の悲鳴に注目しなかったということです。30分間の間、誰も外に出てこなかったこと、誰も若い女性が男に襲われていた建物のエントランスに顔を出さなかったことなのです。

心理学者のジョン・ダーリーとビブ・ラタネは、この「責任分散」の理論を基に、こういった人々の行動を説明しました。目撃者などが多ければ多いほど、助けようとする人は少なくなる、と述べたのです。

誰かが助けを求めている時、他に目撃者がいると、誰かがやってくれると思い込むのです。しかし、「どうにかしてくれるだろう」という考えは、誰も何もしないという結果になってしまうのです。そうして、そこにある責任は薄くなり、グループ全体に広がることになります。

責任が薄くなるというのは、誰も責任を取らないということです。これは、何かを頼む時にも同じ事が言えます。例えば、「誰か部屋の明かりをつけてくれない?」と頼むより、「ねぇ、ピーター、部屋の明かりをつけてくれない?」という頼む方がこちらの要件を聞いてもらいやすくなります。誰か特定の人を選ぶことによって、この責任の分散を防ぐことが出来るのです。

責任分散の要因

最後に、責任の分散について述べておきたい事があります。それは、助けやサポートを求める上で、他にも大事な要因があることです。

  • もし、誰かが多かれ少なかれ被害に合っていると思った場合、その認識の感覚が高いほど、責任の分散は少なくなります。
  • トラブルに割り込む際は、個人的な代償が発生するかもしれません。キティさんの件では、自分も攻撃される恐怖もありました。その場合、責任分散の確立も上昇します。
  • 他の傍観者達のポジションによっても責任分散が変わります。例えば、自己防衛の専門家は、他の人より、危険な状況を想定して行動します。現場との距離が近い人ほど助ける確率は上がるということなのです。
  • 出くわした状況が深刻かそうでないかによっても、責任分散は変わります。また、助けを求めている時間が長くなったり、より激しいものになったりすると責任分散は低くなります。

暴力を当たり前と思わない

キティ・ジェノヴィーズ事件の悲しさは社会に大きなインパクトを与えました。例えば、この事件はアメリカに911(日本の110番)を設けるきっかけになりました。彼女の為に、人は歌を歌ったり、映画やドラマなどを制作しました。また、アラン・ムーアの「Watchmen」などのコミックにも影響を及ぼしたのです。

彼女の悲鳴は1964年の3月に響き渡り、彼女の泣いた声はエコーのように夜に消えていきました。このような出来事はこの世界のどこかで毎日繰り返されています。それは、私達が暴力を当たり前の事として捉えているからかもしれません。数日前、サッカーを観戦しに来た22歳の若者がスタジアムから落ちてしまう事故がありました。

5メートルの高さから落ちた後、彼はベンチにぶつかり、数時間後無くなりました。しかし、一方で他の観戦客は普段通りに、何事もなかったようにその場所の付近を移動しているのです。まるでスタジアムのデザインかのごとく、当たり前にその光景が、警察が来るまで続いたのです。

キティ・ジェノヴェーズ2

継続的で攻撃的なシーンの露出(スポーツ、テレビ、インターネットなど)が私達を鈍感にさせてしまっているのかもしれません。そして、暴力に対して受動的になったり、反応が鈍くなっているのかもしれません。しかし、どちらにしろ、それは論理的でなく、正しいことでなく、人として間違っていることです。

目撃者で終わるのは辞めるべきです。最初に行動をとれる人間になりましょう。人として、自分達の住んでいる街や近隣に対して関心を持ちましょう。


このテキストは情報提供のみを目的としており、専門家との相談を代替するものではありません。疑問がある場合は、専門家に相談してください。