マルキ・ド・サドと性

· 2017年11月17日

彼は人生のうち30年を刑務所で過ごし、ギロチンによる頭部の切断を宣告され、書いた本は教会によって冒涜だと主張され、殺人と背徳の罪に問われました。これはマルキ・ド・サドの人生のほんの一部です。もっと知りたいですか?

彼の本名はドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドといい、裕福な両親の元に生まれた子息でした。1740年にパリに生まれ、哲学者であり作家でもありました。著名な作品をいくつか書いており、中でも「ジャスティーヌあるいは美徳の不幸」「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」「恋の罪」「アリーヌとヴァルクール又は哲学小説」などが有名です。

マルキ・ド・サドと性

マルキ・ド・サドについて知られているものといえば、彼の性に対する考えでしょう。18世紀末、彼は性的快楽について新しい概念を導入しましたが、それは彼の時代では罪と背徳を扇動するものとして解釈されていました。

「情熱がすすめる全ての出来事に無差別に自らを投げ打つこととしましょう。そして、私達は常に幸せでいられるのです…良心は自然の声ではなく、ただ偏見の声なのです。」

マルキは自らのシニシズムを使って、社会を批判しました。なぜなら、女性は控えめでなくてはならずセックスを悪いこととして捉えなければいけないというアイデアに縛られていながらも、売春行為については男性の性的欲求を満たす方法として容認されていたからです。

彼の時代に生きた多くの人々にとって、マルキ・ド・サドはセックスを病的な形で綴った頭のおかしい男でした。彼が作品を出版し始めた頃、彼は不道徳な作家として見られ、彼の作品は長年にわたって検閲されました。

今日、サドについて考える時、彼と「サディズム」という言葉を結び付けて考えます。サディズムは性的快楽を自身や他人の身体的な痛みを通して得る傾向性のことです。ド・サドは性的倒錯と結びつきがありますが、彼はそれ以上の存在でした。

 

異常な人の生活

マルキ・ド・サドは彼の時代では偉大な学者であったことを忘れてはいけません。彼は特権ある教育を受けており、エキゾチックな旅に強い興味を抱いていました。最も好きであった哲学と歴史の2教科ではそれらの本をむさぼるように読み漁りました。

サドの大修道院長であり、放蕩とヴォルテールに熱狂していた彼のおじがマルキ・ド・サドの教育の面倒を見ました。23歳の時、彼は一流婦人ルネ・ペラジーと結婚しましたが、実は彼女のことが好きではありませんでした。事実、著書「アリーヌとヴァルクール又は哲学小説」の中で、親が取り決めた結婚であったと述べていました。

「謙遜は、慣習と育ちの特有の結果であり幻想である。それは言うところの癖である。」

彼は女性を虐待し拷問にかけた件で人生のほとんどを牢獄で過ごしました。これらの告発は、当時の彼の社交関係、特に義理の母の彼に対する敵対心に多大に影響を及ぼすことになりました。

縛られた腕

性の自由

ド・サドや彼の性的倒錯との関係性についてあらゆる意見がある中、彼の作品は実は文化や育ちによって課された謙遜や制限を超えて性を楽しむという意味で、性の自由を支援するものでした。

彼の作品は、社会学的、政治学的、心理学的、倫理的、人類学的、歴史的、文学的などなど…多様な視点から学ぶことができます。ともかく、彼が使う言葉は読者の脳を目覚めさせることを目的に皮肉と比喩に富んでいます。

手に鎖を付けた女性

ド・サドについての本当のところは、彼は単なる官能小説家だったのではなく、シュールレアリストなどの後年の作家に評価された政治評論家でもあったということです。彼の書物は実に当時の貴族社会に対するパンフレット広告だったのです。

基本的に、ド・サドはモラルの自由を極限の形で啓蒙し、2つの根本的な考え、つまり、あらゆる個人の平等と、他人と直接的な関係を持つことなく生きざるを得ない社会に生まれたという考えに基づいた過激な自己中心性を結合させました。

従って、マルキ・ド・サドは彼の時代においては最も前進的な意見を持っていたのです。人々はそんな彼を彼の死後ですら長い間黙らせようとしました。今日、彼は歴史上最も非礼で興味深い人物の一人として人々の好奇心を駆り立て続けています。

「実践せずに説教することは、船を造っておいて岸に置いておくのと同じことである。」