物事を簡易化すると尊厳の価値は下がるのか

2019年1月22日

現代社会では、物事を簡易的にするという共通の文化を生み出すために、多くの困難の壁を壊してきました。人は今も昔も、目的を達成するための課題を簡単にすることを求めています。例えば、車輪は重いものを一つの場所から別の場所に簡単に動かすことを可能にしました。人間の歴史のほとんどは、過程を簡易化することとの戦いです。しかし、これによって、近道をする人を大量に生み出してしまいました。

まず、産業革命が起こり、次にコンピューター革命が起こりました。どちらの現象も、人間のために物事を容易にすることが目的です。別の言葉で言えば、エネルギーと時間を必要としていた日々の活動の努力を最小限にすることです。例えば、情報伝達方法です。言葉の伝達はニュースやネット上でのリアルタイムの情報に取って代わられました。

「同調は現代風の許可である。」
-アントニオ・エスコホタドー –

これによって本当に生活は楽になったかどうか、考えてみる価値がありそうです。より早くなり、必要となる物理的なエネルギーの投資が減った、というほうが正しいかもしれません。しかし、存在はより複雑になり、精神的な病気がますますみられるようになってきました。しかし、物事を簡易化することは、この複雑さに対抗するために確立されたはずでした。

生活を簡易化することの容易さ

産業化と情報技術の目的は、人間の人生を容易にすることではありません。最終的な目標は、より早く簡単に製造を行うことです。日々の生活を簡易化しますが、本質的にそれが元々の計画ではありません。これらの多くの進化は、幸福よりもお金の概念によるものです

バイク

仮にそうだとしても、すべてが簡単に機能すべきだという原理は、様々な方法でわたしたちの意識にしみこんでいます。最悪なのは、これによって簡単で早いことが望ましい特徴であるかのように思い込んでしまうことです。複雑で遅いことは欠陥となります。このような考え方が、物事を簡単にしたいという欲求の基礎になっています。

出来る限りポジティブで意味のある言い方をすれば、科学と技術は、機械的な課題や激しい肉体労働を必要とするものからわたしたちを解放しようとしました。 服を早く洗ったり、思うものの移動を簡単にしたりするなど、物事を素早く行うことで、もっと心を満たしてくれる賞賛に値するような課題に時間を割けるようになると私たちは信じています。しかし、これは真実ではありません。もしくは、限られたときのみ一部で機能するだけです。逆に広まってしまったのは、努力への軽蔑でした。

人生を楽にしてくれる技術がありますが、同時に、人は自分の前に開けた時間の深淵を目の前にして途方に暮れています。さらに、以前は人は長時間働きましたが、今では同じ時間かそれ以上働いています。

簡易さと尊厳

問題を排除する、という誤った認識が構築されています。問題にはポジティブなことが何もないという考えが広がってしまっています。さらに悪いことに、多くの人が困難のない人生、障害のない世界は可能だと想像するようになってしまっています。

問題が消える日が来ないことにいらだちを感じる程にまで、これを信じてしまっている人もいます。この大きな矛盾は、今まではたくさんの問題を抱えているという感覚は生まれてこなかったということです。ほぼすべてが困難に感じられます。たくさん食べたかほどんど食べなかったか。仕事があるかないか。交際しているかしていないか。様々です。

女性たち

心理的な観点から言うと、簡易化には2つの面があります。一つ目は、解決できない問題の壁への防衛反応です。2つ目は、子どもっぽい反応です。コミットメント、努力、責任などを必要としない状態にとどまりたいという思いです。

このような姿勢の人は、現実と困難は常に一緒に訪れるものであるということを受け入れません。しかし、こういった人たちは、人や人類が探索し、見つけ、成長することを可能にしているのはその困難の存在そのものであるということを理解していません。火の発明ですら、もともとは問題を解決しようとした結果です。それを解決することによって、ホモ・サピエンスへの確実な基礎を築いていったのです。

一般的に、物事を簡易化することは問題を蓄積して増やすことに他なりません。さらに、挑戦し、自分を測り、能力への自信をつける力を人から奪ってしまいます。

これによって、人生における良いものを楽しむことができなくなります。自分らしさ、自分ができることに尊厳を感じることです。世界の飢餓などの解決できない困難もあります。しかし、解決できるたくさんのことも存在します。欠けているのは自信です。自己愛かもしれません。あるいは、このいずれも必要なのかもしれません。