知的謙虚さ:大切なのは、シンプルでいること

19 10月, 2020
シンプルさを好む人々の謙虚さは、彼らの行動以外の面からも垣間見ることができます。このような美しい姿勢は思考と柔軟性から生まれるものです。今回の記事は、自らの過ちを打ち明け、成長の余地を残すという謙虚な生き方についてのお話です。

自らの知識や知能の限界を認めること、つまり知的謙虚さは非常に重要です。結局のところ、この世に存在する全ての人は自らの考えに基づいて行動していますよね?しかしながら、誰でも少なくとも一人は自身の頭脳や心を誇っている人物に出会ったことがあるはずです。

そういった人々はその重要性を知らないというシンプルな理由故に、謙虚さについてほとんど何もわかっていないのです。それにもかかわらず、なぜこのような自己中心的なタイプの人が世の中に溢れているのでしょうか。これまでにそのことについて考えてみたことはありますか?

これは単なる表面的な問題ではありません。時代が進むにつれて、自らの意見こそが唯一尊重されるべきものだと信じる人がますます増えてきています。その結果、「私はミスをしました」または「私は物事を間違った方法で行なっていました」などと謝罪したり認めたりする言葉を耳にするのが難しくなっているのです。ここで興味深いのが、こういったエゴはソーシャルメディア上のみならず、私たち全員の身の回りに潜んでいるという点でしょう。

それでは、その一例を挙げてみます。ほんの一年ほど前、マックス・プランク人間発達研究所の心理学者たちがある印象的な発表をしました。彼らは、「研究者たちは誤っている、あるいは不当であると証明された全ての研究結果に対して書面で謝罪を発表すべきだ」という提案を全科学コミュニティに向けて伝えたのです。

この考えの推進者であるジュリア・M・ローレル博士は、知的謙虚さの欠如には文化的な要因が関わっていると考えています。それが私たち全員の思考パターンや行動にあまりにも根深く染み込んでいるため、今こそ誰かが正しい模範を示し始めねばならないのです。

知的謙虚さの重要性

完全に間違っているにも関わらず、決して考えを変えようとしない相手に不満を感じた経験はありませんか?誰もがこのような状況に一度か二度は遭遇しているはずです。では次に、最後にあなたご自身がミスをしてしまい、それを認めることができたのはいつだったかを考えてみてください。かなり前のことでしたか?もしくは普段からこのような振る舞いができていますか?

一般的に知られているように、自分自身のミスに気づくことは人間にとってかなり困難です。自らの落ち度に関する話題には誰もが無知なのです。実際には、人間であれば時折過ちを犯すのは当たり前ですし、その告白をそれほど大それたものと見なすべきではありません。しかし前述の通り、自分を完璧な存在に見せるよう、人類の文明自体が私たちに促しているのです。もちろん、このように知的な完全無欠性を装う社会は進歩が妨げられることや失敗を認めることを許しません。

事実、意見を変えるという行為により他人から難色を示されることが時折あります。まるで、人間には価値観や意見、信条などを変えることが許されていないかのようです。一生涯同じ考え方でいなければならないとでも言うのでしょうか。もし誰かが思い切って考え方を変えたとしましょう。するとその人の一貫性はもはや失われてしまうだろう、というのが世の中で一般的な捉え方です。しかしもちろんこれほど間違った解釈はありません。経験や成長の結果として変化することは、全ての人に認められた権利なのです。

知的謙虚さ シンプルでいること

自らの無知を白状すること

「唯一の真の知とは、自分が無知であるという事実を知ることにある」とソクラテスは述べました。また、16世紀にはミシェル・ド・モンテーニュが「人間の疫病というのは、自らの知識を自慢することだ。だからこそ私たちの宗教は信仰と服従のために適した性質として無知でいることをこれほど推奨しているのだ」と主張しています。このように、ほとんどの哲学者たちは私たちが知的謙虚さと呼ぶものの重要性に気づいていたのです。

そうは言っても、知的謙虚さが素晴らしい美徳だと言えるのは、過ちを犯すことが世界の終わりを意味するわけではないという事実を思い出させてくれるものだからです。最終的に他人の意見を考慮することになっても何の問題も無いのです。また、自身の欠点や弱点を常に心に留めておくことも必要になります。しかし常にそれらを意識し続けることなど可能なのでしょうか?

脳はそれらを知覚することができないため、それは難しいでしょう。つまり、私たちの頭脳はそれほど柔軟に作られていないため、全てのバイアスを確認することは困難なのです。驚くべきことに、どれほど広い心の持ち主であっても常に矛盾や不確実性を抱えていますし、自分でもなかなか簡単には認められない反対意見を持っているものなのです。

デューク大学の社会人格心理学者マーク・リアリーが、ある重要な点を指摘しています。それは、無知とは目に見えないものだということです。私たちは自分自身の無知さをほとんど実感することができません。そしてもし認識できたとしても、それを受け入れるのが難しいのです。自らのミスを白状すること、言うだけなら簡単ですが、実行するとなると話は別でしょう。一方で、知的謙虚さを兼ね備えている人々は何の問題も無く自身の過ちを引き受けることができます。そうすることで前進や学び、そして認知面の豊かさへの道のりがぐっと楽なものになります。

知的謙虚さ:大切なのは、シンプルでいること

シンプルさこそ、知的な美徳

数ある美徳の中には、ほとんど気づかれはしないものの世界をより良い場所にできる優れた力を持ったものがあります。そのような美徳を持つ人々が他人から常に大きく注目を集めている中で、過度な自信や傲慢さを振りかざし、完璧で強情な振る舞いを見せる人も存在します。彼らはまるで、「私は何もかもを知っていて、決して間違うことはありません」と書かれたバナー広告を掲げながら生きているかのようです。

そしてその言葉ほど真実からかけ離れたものは無いでしょう。ずっと間違った認識を持ち続けており、今後もあらゆる面で間違いを繰り返すはずです。自らのミスを引き受けようとしない人はそのミスを繰り返す運命にある、という事実を忘れないでおきましょう。反対に、感情的謙虚さと知的謙虚さの両方を有する人々は自身のミスを認め、正しい行いをするために前進することができるのです。

最後に、シンプルさこそが知的な美徳であり、エゴを打ち破って社交面と感情面の健全性に繋がる力なのです。そのため、柔軟性や理解力を兼ね備える人に比べて偏見しか頭にない人は満ち足りた人生を送ることができません。現代社会において、知的謙虚さはこれまで以上に重要性を増しています。これを獲得できるよう、取り組みを始めていきましょう。