誰かに対峙する時と流すときをどうやって決めるか

· 2018年10月7日

攻撃性は、人間の中で最も理解されておらず管理もされていない本能の一つです。一般的に、これにはネガティブなイメージがあります。しかし、これは生き残りのツールボックスの一部であり、基本的な目的として機能します。自分が求めているものを強く要求しなければならない時がその例です。

私たちは誰かに対峙した時、騒ぐほどのことでもないのに異常に繊細になっていないかと疑問を抱きがちです。本当に戦う価値のあることだろうか?簡単な計算ではありません。客観的な現実よりも、気分に大きく左右される個人の価値観に左右されます。

自分の望むものを要求すべきかというジレンマは、思っている以上に大事なことかもしれません。要求する必要がある時にそれをしないと、わたしたちは他人が自分を踏みにじることを許しています。逆に努力の価値もないところで誰かに対峙すると、不必要な対立を生み出しているかもしれません。状況が深刻であれば、どちらの選択も大きな影響を及ぼします。

いつ対峙すべきがわかる手掛かり

問題は、何を基準にしてイライラさせる不快で有害な状況を押し返す時を決定するのか、ということです。はじめに強調したいのは、個人、ビジネス関連に関わらず、すべての不満が正当だとは限らないということです。

虫メガネ

以下のようなときには、問題を議論することは避けられないとわかります。

 

  • 基本的な人権が侵されている時。この場合は、黙っていてはいけません。このような状況で口を閉ざすことは、敬意と思いやりに酷く欠けた態度を許してしまいます。
  • すでに起こってしまった被害の影響が長引き、心の健康に中・長期的に影響する場合。この場合は、黙っていることでネガティブな経験を長引かせてしまいます。
  • 同意や協定を意図的に破る。協定が壊されてしまうことは、声をあげる正当な理由です。すでに参加しているゲームのルールを変更することはできません。もし文句を言わなかったら、特定の人に対する偏見をもたら巣も場合ですら、その新しいルールを普通として受け入れたことになります。
  • 人間の尊厳を脅かすとき。肉体的、言葉、象徴的な脅威です。どれも許しがたいものです。黙っていたり何もしないのは、この行いを承認していることと同じです。

 

どんなとき我慢すべきか

いつ声をあげるべきかという基準があるように、対峙することがやりすぎであることを示すサインもあります。まず、誰かが意図せずに自分を傷つけたり、苛立たせたり、影響を及ぼしてきたときです。例としては、傷つけようという意図はなく、状況のためにそうするつもりがないのに他人に影響を及ぼしてしまう時です。この状況で対立する意味はありません。

自分のエゴやうぬぼれに傷が付いたからといって対立を生み出すこともよくありません。例えば、皆が参加する事になっていたグループの活動に誘われなかったときです。あるいは、相手が失礼なことをしているわけでもなく、ただ自分を王様のように扱ってくれないという時です。これらのケースでは、いらだちは自分が乗り越えるべきナルシスト的傾向から来ています。

2人のひと

絶対に対立を起こすべきではないケースは、誰かのために何かをしてお返しを受けなかったときです。事前に同意がなかったら、お返しをするかしないかはその人が決めることです。そして、またその人に何かをしてあげたいかも自分次第です。

対峙は芸術

誰かに対峙することが適切だと判断したからと言って、言い争いを始めたいというわけではありません。実際に対立があり、相手が非常に攻撃的な状況に置かれることもあるでしょう。極端な攻撃性や、問題に対する解決策を拒否することは避けなくてはいけません。

感情が落ち着いてから行うほうが良いです。誰かに傷つけられた時、いらだちを感じます。同時に、これは怒りに導き、状況を適切に評価することに対して盲目になります。だから、落ち着いてから対峙することほうが良いんです。

次のステップは、自分の苦情をはっきり述べることです。受けたダメージと理由を説明してください。相手の行為がどのように自分の権利、同意、規範に反していたかを指摘します。状況によっては、謝罪やダメージへの返済を要求しましょう。これはすべて怒らずにできることです。このような難しい状況には論理が一番です。