「毒矢のたとえ」仏教の寓話から考える

· 2018年1月12日

ブッダの偉大な主張の一つは、今この時を生きることでした。だからこそその教えの中に、今日マインドフルネスのきっかけとなった基本的な考え方を見い出すことができます。「毒矢のたとえ」のような仏教の寓話を読んでみると、何世紀も前にこの偉大な思想家が語ったことが今の私たちにも通ずるということに気づくでしょう。

ブッダの特に有名な言葉に「過去に執着するな。未来を夢見るな。今この瞬間に心を集中させよ。」というものがあります。そこで今回は、「毒矢のたとえ」という寓話をもって仏教のこの側面に注目してみましょう。

「毒矢のたとえ」

仏教の経典であるパーリ仏典の中のマッジマ・ニカーヤ(中部経典)には多くの寓話が収められており、その中に「毒矢のたとえ」があります。ブッダはこの話を、最も忍耐力のない弟子に話して聞かせたと伝えられています。若い弟子は、死後の命についての問いへの答えを渇望していました。

老僧と弟子二人

そこでブッダは次の話を聞かせました。

ある時一人の男が毒矢に射られた。彼の家族が医者を呼びに行こうとすると、瀕死の男はそれを止め「医者に助けてもらう前に、この矢を射たのは誰なのか知りたい。どのカーストに属する者なのか、どこで生まれた者なのか知りたい。その者の身長、力、肌の色、矢を射た弓の弦は麻なのか絹なのか竹であったのかも知りたい。」と言った。

こうして、その矢に付いていた羽がハゲタカのものなのか孔雀のものなのかハヤブサのものなのか、また、その弓が普通の弓かカーブのある弓かキョウチクトウの毒だったのかを知りたがっているうちに、何も知らないまま死んでしまった。

「意味のない千の言葉よりも、平安をもたらすたった一つの言葉の方が価値がある」

-ブッダ-

「毒矢のたとえ」が説くこと

この瀕死の男の言動はかなり馬鹿馬鹿しいものに思えるのではないでしょうか。しかしこの極端な例を、人生の別の状況に当てはめてみると、私たちもこの男のように行動している場合がありませんか?

恐らく無意識のうちにですが、時に私たちは、本当に大切な問題に立ち向かうことを恐れるあまり、実際には無意味なことに過剰に意識を向けることがあります。物事の核心には迫らず、その時点で重要ではないことに気をとられるのです。

つまり、この寓話によってブッダは、ある状況において重要なことと必要でないことを区別できる知性が、その困難に勝つか負けるかを決定づけるということを弟子に教えようとしたのです。

本当に価値あることに集中する

寄り道をすることが何の価値もないというわけではありません。問題は、その寄り道が何の目的もなくだらだらと続く場合です。要は、問題を解決しなければならない時は、脇道にそれず直接その問題にとりかかるのが一番よいのです。でなければ、問題はさらに大きくなってしまうだけかもしれません。

一歩ずつ進む

「オリーブの実を食べたら、種を捨てよ」ということわざがある国がいくつかあります。このシンプルな言葉が示すのは、一つの問題を解決したら次にうつれ、ということです。スペインの有名な格言「仕事の手を広げすぎると全てに目が届かない」にも通じます。

 

また、私たちは様々なことに影響されたり、心を奪われたりしますが、それらのことを考えすぎないのが良いでしょう。そうすれば、不安・怒り・悲しみやフラストレーションで頭がいっぱいになるのを避けることができます。

目をつぶる女性 白黒

不要なことを取り払う

もう一度、大抵とても賢明で聞く価値のある市井の知恵に戻りましょう。「最もたくさん持つ人が豊かなのではなく、最も少ないものを必要とする人が豊かなのだ」という言葉があります。 時として私たちは、幸せになるには足りないものを手に入れなければならないと考えます。けれども、基本的なものだけで生き、知識を深めることに慣れると、そんなに不足していないのだと気づくでしょう。愛する人の愛は、不必要で、過剰な、あるいは高価な持ち物よりはるかに価値があるものです。

「愚かな者の友となるなかれ」

-ブッダ-

レオナルド・ダ・ヴィンチは、「シンプルさは究極の洗練である」と言いました。ブッダの「毒矢のたとえ」は、同じ概念を軸にしています。二人の偉人。これ以上付け加えることはありませんね。