エドゥアルド・ガレアーノ:自由主義者の人生

2019年8月10日
エドゥアルド・ガレアーノの作品には、特別な魔法がかかっています。ガレアーノは歴史家で、才能あるジャーナリスト、詩人でもありました。作家は考え同時に感じることが許されると考え、客観性の概念を否定しました。

エドゥアルド・ガレアーノという名は、優秀な作品、社会的言質、倫理と同義です。著書「収奪された大地 ラテンアメリカ五百年」は、20カ国語に翻訳されている一流の本です。

ガレアーノはどのジャンルにも入れられません。現実とフィクション、感情と思考が混ざっているものがたくさんあります。主観性と客観性を混ぜた独特の組み合わせを表すのに彼が使った「感情―思考言語」という造語で人はガレアーノを評価しています。

ガレアーノに関して最も興味深いのは、彼が独学で学んだことです。プロとしての正式な称号は取得しませんでしたが、名誉博士号を得ました。彼の作品は、日々の感知に刺激されているため、影響力が強いのかもしれません。

エドゥアルド・ガレアーノ 自由主義者 人生

 

モンテビデオの作家

エドゥアルド・ガレアーノは1940年9月3日ウルグアイ、モンテビデオで生まれました。出生名はエドゥアルド・ジャーマン・マリア・ウヘス・ガレアーノでしたが、母方の姓のみをとりました。家庭は裕福で、敬虔なカトリック信者でした。

幼少期、聖人またはサッカー選手になるのが夢で、どちらか先に機会を得た方をと考えていました。14歳の時、週刊誌「エル・ソル」に、自分で書いた漫画を持っていきます。それは大変気に入られ、すぐに採用され、ガレアーノは、社会主義の漫画家になったのです。

19歳の時、自分の存在意義を見失い、自殺を図りました。その原因をはっきりと語ることはありませんでしたが、昏睡状態から覚醒すると、彼の人生は劇的に変化したのです。エドゥアルド・ガレアーノが、週刊誌マルチャの作家になったのはこの時です。

 

亡命中のエドゥアルド・ガレアーノ

1973年ウルグアイでは、軍事クーデターが勃発し、悲惨な独裁が行われます。ガレアーノは逮捕され、短期間でしたが投獄され、その後アルゼンチンへ渡りますした。有名な著書「収奪された大地 ラテンアメリカ五百年」を書いたのは、弱冠32歳の時です。政治経済に関する本を書く予定でしたが、ラテンアメリカ文学の象徴ともなる情熱的な物語を書くことにしました

この頃までに、ガレアーノは2度結婚し3人の子どもに恵まれました。また、アルゼンチンでは、雑誌「クリシス」を創設しました。ところが、1976年アルゼンチンは独裁政権となり、ガレアーノは再び移動を余儀なくされます。出発前、とあるバーベキューでヘレナ・ヴィラガと出会い、彼女はその後40年間彼の伴侶となるのでした

ウルグアイ、アルゼンチン、チリの独裁によりガレアーノの著書は剥奪されました。その直後彼はスペインへ亡命し、有名な「火の記憶」を書きました。ギリシャの詩の影響を受け、この本はいくつかに分けて書かれています。本の中のいくつかの章は、紙ナプキンに走り書きされたという噂もあります。

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ウルグアイへの帰還

独裁が倒れた1985年、ガレアーノはウルグアイに帰ることができました。昔のように、新たな週刊誌ブレチャを、マリオ・ベネディッティやその他の知識人と共に創設しました。また、モンテビデオにある詩人が集まる数あるコーヒーショップのひとつ、エル・ブラジレイロの常連になります。彼はいつも同じ窓際の席に座りました。現在もエル・ブラジレイロは存在し、偉大な作家にちなみ「カフェ・ガレアーノ」というメニューがあります。

ガレアーノは再び、左翼派政治、知識人集団に所属します。2004年、ウルグアイで左翼派政治が初めて勝利し、タバレ・バスケスが当選したウルグアイ大統領選挙に関わっていました。後に、彼はペペ・ムヒカの権力の高上を祝います。ベネズエラのテレビ局、テレスールの諮問委員会に加わり、メキシコの新聞、「ラ・ホルナダ」の週刊コラムを書きました。

2007年、ガレアーノは、肺がんと診断され、あまり公には姿を見せなくなります。死ぬ時まで、新しいテクノロジーを信用せず、筆をとりました。そして、極度の合理性と権威主義を拒みました。エドゥアルド・ガレアーノが生涯を閉じたのは2015年4月13日、74歳の時でした。

  • Chacón Ramírez, C. A., & Botero Herrera, D. A. (2016). Entre el miedo y el derecho al delirio: un decir desde los ninguneados de Eduardo Galeano. Hallazgos, 13(25).