過度な親切に潜む人をコントロールしたいという気持ち
人の過剰な行為は、何かしらの問題に苦しんでいるサインかもしれません。これは隠れている問題を隠すために使う方法の一つなのです。親切すぎることは良いことだと考えられがちですが、必ずしもそうとは限りません。
本人は認めないかもしれませんが、親切な人が見返りを期待することはよくあります。また、助けたいという思いが実は人の行動をコントロ―ルする一種の方法になっている可能性もあります。
他のもがきのサインには、親切になろうとしている人が自分や人に対して言う文句があります。自分の思うように人が行動しない、また「感謝が足りない」ために、常に失望を示すのです。こんな時、過度の親切は実は一種のコントロールの形なのかもしれません。
「人生の真の意味は、自分がその木陰に座ることはないとわかっていても、木を植えることなのだ。」
-ネルソン・ヘンダーソン-
親切すぎること
親切すぎるということは、自分のニーズや欲求を大事にせず、人を喜ばすために自分を犠牲にすることを意味します。また、人を助けるために生き、自分自身も助けや喜びを必要としていることを認めないことにもなるでしょう。このような特徴はどんな時も「ヒーロー」であろうとする人に見られます。
これに関する研究をしている専門家は、人を助けようという強迫的な思いは、愛着を強く求めるニーズからきていると指摘します。幼少期に十分な愛情を受けなかった人、自立するように育てられなかった人によく見られる行動です。
どちらにせよ、親切すぎることは人の愛情や容認を「買う」方法のひとつです。そのため、それが受けられなかった場合失望してしまいます。そして自分は人に「与えすぎている」と文句を言うことにつながるのです。
共感からコントロールへ
親切すぎる人は、人を助けたいという思いの裏にある自分の本当の動機に気づいていないことがよくあります。本当に人の幸せを心配していると思っているのです。
このような人は、周りの人の痛みに気づくことができ、苦しんでいる人を見ると自分も気が塞ぎます。しかしここには2つの問題があります。ひとつ目は、自分に対しこのような親切心や関心を抱くことが決してないということです。自ら自分を後回しにします。
ふたつ目は、人の行動をコントロールしようとすることです。自分のしていることを皆に認めてほしいと思っており、注目や感謝を求めます。また、これにより自分が助けた人の人生をコントロールする権利を持っていると感じ、自分のしたことへの「報酬」としてその権利を求めるのです。
本当の人助けとは
人に親切にする前に、自分に優しくなることを学びましょう。人への関心と自分への関心のバランスを取るためにこれは絶対に必要です。人のために請け負う犠牲は、あなたの生活、ニーズ、限界とバランスがとれたものでなければなりません。
また、人を助ける自分のモチベーションを知ることも大切です。これを分析することにより、自分のニーズを知り、人に対し操作的になることなく、人助けができるようになるでしょう。
さらに、必要とされたいというニーズは双方によくない共依存の関係につながりかねません。人を助けるためには、相手が強くなれるようなそして自立できるような環境を整えることが、一番です。あなたに助けを求めるのではなく、解決法が見つかるよう応援しましょう。
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López, A. M. (2000). La metafísica de la generosidad cartesiana. Iztapalapa. Revista de Ciencias Sociales y Humanidades, 21(49), 27-44.