開放的な態度で受け入れ、幸せをつかむ

· 2018年3月5日

楽観することは非常に有益な性質であり、人生の試練に直面するのを助けてくれます。しかし、ポジティブでいるだけでは不十分です。度を超えた楽観主義や悲観主義は望ましくありません。現代の社会では、多幸感の独占状態がそれを支持しない人を辱めているように見えます。

この記事では、幸福が独占している状態と、幸せを含む異なる感情が平等に共存する状態との違いを区別する方法を理解できるようにしたいと思います。

「人生における喜びとはいつの時代も何かすることがあり、愛する人がおり、そして期待できることがあることである。」

―トーマス・チャーマーズ

幸せと宣伝

幸せは宣伝によって後押しされている商品です。そうした宣伝は私達に買わなければならないあらゆる物、しなければならないあらゆる事、幸せになるために読まなければならないあらゆる自己啓発本を伝えています。美しく、健康で幸せな人のみが成功者であり、雑誌に載るのです。

そうした美しく、幸せで、永遠に笑顔を絶やさずにいる人達は、私達が不十分な存在であるかのように思わせます。それが私達に生活の中でもっと幸せを得るために買いたいと思わせ、彼らがしたり言っているようなことをしたいと思わせるのです。

海辺のベンチと街灯

適度なバランスとは何なのでしょうか?それは単純に、自分が必要なもの、そして自分のキャラクターに合い、自分の経済状況に合ったものを買うということです。それは、「私達は不十分だ」という多くのメッセージを受け取っても、自分という存在を楽しむことです。こうした不健全な「美」のメッセージの多くは、拒食症や過食症といった病を導いています。幸福のモデルを掲げてこうしたことを起こさないようにしましょう。自分の人生を自然体で生きていきましょう。

幸せとは問題がないということではない

幸せとは状態であり、流れであり、人生におけるいかなる時、いかなる状況にも訪れる瞬間のことです。幸せな瞬間は理想的な状況下でしか訪れないという考えは、雨の日というグレーでいくらか不快で、かつ催眠的でもある日の素晴らしさを拒否することと同じです。

幸せな瞬間がいつ訪れるのかや、望ましくない状況がいつ幸せな瞬間になるのかは分かりません。確かなことは、開放的な態度が私達にポジティブなことを逃さないようにさせてくれるということです。

自分の感情を全て受け入れることの幸せ

私達は、今日、以前にもまして自分の感情を診断するようになっています。悲しければ、その感情は耐え難いものであるとみなされ、自分たちの存在からできるだけ遠いところにあってほしいと思います。嬉しければ、その感情が大抵激しくまた一時的なものであるという根本的な特性を無視して、その感情を促し、疲弊するまで引き延ばしたいと思います。

私達は頭脳にポジティブなものは貯蓄し、ネガティブなものは取り払ってほしいと思っています。では、どのように快い状態とそうでないものとを見分ければよいのでしょうか?もし嫌な記憶を覚えていなかったら、私達の生存には何が起こるのでしょうか?どのようにして私達は一種として進化することができ、また今は人類として進化してきたのでしょうか?

私達は自分のことを様々な感情を抱くことができる複雑な人間であると分析しなければいけません。あらゆる感情を感じ、そうした感情を包み込むことを許すことが思いきり生きる唯一の方法なのです。

喜怒哀楽の顔

理想なく自分で課した幸せは絶望

献身と犠牲のない闘いや夢などありません。時として、夢が自分を湧き立たせ、やる気を起こさせてくれるなら、それを単純に道の一部として見ます。

しかし、大きな目標を達成するためには、自分にとって大事なことも捨てなければいけません。極端な例ですが、テストに合格したいから、夜にパーティーで騒ぐのはやめておこうと思うようなことです。こうした種類の諦めは、私達を困窮させたりしません。しかし、愛する人との時間を諦めることは恐怖と不快感を生み出します。

私達はいつも幸せでいると決めるがために、前もって困難であることを知っている目標を諦めたりするかもしれません。しかし、こうした取りつかれたような幸せ―常に良い気分でいること―の追求は、メンタルヘルスと同等ではありません。人には人生においてストレスや落胆、不確かさも必要です。

良い気分でいるという文化的なノルマは、私達に感覚を失わせてしまいかねないものです。希望を抱き、理想のために苦闘する人は、幸せを必要不可欠な条件だと思い込んでいる人よりも強い不快感に対処することができるでしょう。つまり、常に幸せな状態で生きたいという理由で、本質と意義を既に失った人々よりもです。

人生は義務ではなく、幸せは課せられるものではない。