恐怖生産工場:現代社会と権力構造

· 2017年11月18日

恐怖は生存を保証する全く自然な人間的感情です。しかし極限にまで恐怖を感じるとなると、それは個人の思考や感情、行動を支配する力を持ちます。権力を手にした人は恐怖が他人を支配し、相手を意のままに考えさせ、感じさせ、行動させたりするのに使える効果的な武器であることを必ず知っています。

 

権力者は常に支配下にある人達を抑圧するために恐怖に頼ります。その最も基本的な形である身体的罰の使用により恐怖は徐々に教え込まれ、そうした罰にさらされた人の品位や命を脅かしてきました。

身体的暴力、身体機能の喪失、身体的な痛みというのは歴史を通して従属者や支配下にある敵を罰したり、従う者の生命を潜在的に脅かし続ける手段として使われてきました。

しかし、それは中世では封建的な奉仕者を支配するものでしたが、今日では集団を支配するものとなりました。

支配者に反抗する行為をいちいち発見したり、そうした人達を効果的に罰することは不可能であることから、多くの人は身体的な罰から逃れることができるようになりました。しかしそのために、今日の権力はより洗練されたものとなりました。それはもはや決まりを破る人を抑制するものではなくなり、むしろ多数の人が服従することを保証するメカニズムを導入するものとなりました。

 

今日の権力と恐怖

今日、人々を強大に支配している感情があるとすれば、それは恐怖です。しかし、それは危険に関する正確なデータがないにも関わらず存在する不確かで拡散した恐怖であり、何百という潜在脅威に気づくことから来るものです。リスクは完全に明確なものではありません。そのため、恐怖は気付かないうちに自分の感情面での生活を支配し侵略することができるのものなのです。このタイプの恐怖をもっと正確に表現する言葉を不安といいます。

雲の上に立ちうなだれる男性

実際に確立されたものは生きる恐怖であり、私達は服従したいと思うことなく服従することでこの恐怖と対峙しています。半分意識的に、半分は無意識的に、与えられた指示に従ったり、集団に加わろうとしたり、従順な形で抵抗しようとすらしたりします。サッカーの試合ではお互いを出し抜いたりすることはできますが、全てを投げうって、常に夢見てきたことのために闘う心の自由を持つ人はほとんどいません。

多くの人は、見返りにより安全であると仮定された状態を手に入れることができるのであれば、自分の権利を諦めることすら可能だったりします。政治家はこのことを知っており、脅威を言い訳にして人々の権利や自由を奪うことを正当化しているのです。

もし政治家が医療サービスを制限するとすれば、それは経済的破綻を避けるためです。もし税を上げるとなれば、それはあなたの年金を保証するためです。もし警察に家宅捜索命令なしに家宅侵入を許すとすれば、それはテロリストの脅威と闘うためです。最近では政治家は夢は約束しないけれど、悪夢からは守っていると言われています。

 

脅威生産工場

今日の世間が協調や兄弟愛のしらべとはいかないことは確かです。しかし、それはまたニュースやメディアが毎日言うような汚い下水というわけでもありません。メディアは、犯罪、暴力、腐敗を現実の中心とすることに特化しています。こうしたことが全て存在することは事実である一方、ただ平和に生きたいと願う誠実で良い人達が毎日行っている行動が何万とあることも事実です。

頭が鳥かごの女性

しかし権力は不安がっている人を必要としています。なぜなら、不安がっている人は脆弱だからです。脆弱な人は考えるよりも感じることの方が多いです。そうした人達が考えずに感じる時、内面に存在する恐怖に流され、受け入れがたいことを受け入れてしまいます。例えば、スマートフォンで交わされる面白味に欠ける会話に基づいて生きたり、筋肉を崇拝したり、有能だと感じるために修士号を5つ取得したり、あるいはあらゆることから守ってくれるロマンチックなパートナーを躍起になって探したりというような具合にです。

恐怖や不安を生み出すことに長けている人というのは存在します。クビになることを恐れない従業員などいません。なぜなら、ほとんどの企業では「労力の削減」という脅威が従業員にのしかかっているからです。

平穏に子供を育てられる母親はほとんどいません。小児性愛者やADHD、その他頭を悩ませることが何千とあるからです。私達はみな戦争を起こすような錯乱した人や、事の決まりを変えて私達を排除しようとする無責任な人がいるかもしれないという不確かさに直面しているのです。

なぜ物理的な力で罰するのでしょうか?なぜ抑制するのでしょうか?社会を不安にするだけで十分なはずです。それが恐怖生産工場が存在する意味なのです。自分の人生はコントロールできない、対応するには自分の能力を超える脅威が存在すると皆に教えるためにあるのです。そして、こうして不快な人間が何百人と権力の地位に就いているという事実を正当化しているのです。