無神論の種類とそれらの微妙な違いについて

25 7月, 2020
信教の自由は、人類にとって達成するのが最も難しい自由だと言えるかもしれません。なぜなら、まだそれが許されていない社会は数多く存在するからです。本日の記事では、様々なタイプの無神論と、それがどういった意味を持つのかについてお話ししていきます。

無神論とは、神や神聖な存在などいないという信条のことです。とてもシンプルですよね?このトピックに関する調査を開始する以前は、無神論の概念や分類は非無神論者を混乱させるだけだろうと考えていました。しかし私は、そういった全ての思い込みが真実からかけ離れていることに気づいたのです。今日は、無神論の意味合いについて詳しく見ていきましょう。

無神論にも様々な種類があります。「無信仰」は世界中どの場所でも同じものだというわけではありませんし、無神論者全員が同じ種類の無神論を支持しているわけでもありません。

私が思うに、このばらつきは無神論者の、何かの信者になりたくないという恐怖心に関連しているのでしょう。そう言うと少々聞こえが悪いかもしれませんが、それは宗教にまつわる立場、あるいは極端な立ち位置に置かれることへの拒絶以上のもののように思えます。

そうは言っても、無神論は宗教上の原理主義のカテゴリーに分類される場合もあります。一般的に無神論者にとっての包括的な目標は、宗教を信じることがサンタクロースを信じることと同等に見られるほどの非宗教的な社会を作ることです。つまり、宗教が科学的な基盤の無いただの信条として扱われる社会を目指しています。

しかしだからと言って、宗教が「信条」と分離される限りにおいては、この考え方をネガティブなものであると短絡的に解釈するのは間違いです。非宗教的な国家とは、このような比較が許容されている社会を指します。とは言え、誰かを傷つけてしまう可能性は常に存在するでしょう。一方で宗教的な社会では、このような考え方を表に出せば処刑されてしまうことすらあり得るのです。

無神論 種類 微妙な違い

無神論:無信仰との間の微妙な意味合いの違い

アントニー・フルーやマイケル・マーティンなどの哲学者たちが、無神論の微妙な意味合いの違いについていくつか提唱しています。彼らは無神論を積極的無神論(強い無神論)と消極的無神論(弱い無神論)とに区別しました。

  • 積極的無神論では、神など存在しないという信条を意識的に表明します。
  • 消極的無神論は神の存在を否定するというよりはむしろ信じていない、という姿勢を指します。

したがって、積極的無神論とは「神は存在しない」という言明に賛同する無神論者たちを説明するために一般的に使用される言葉だということです。積極的無神論者たちは、神が存在しないことを証拠とともに断定すべく自らの時間を割けるような人々だとも言えるかもしれません。一方で、消極的無神論者であれば「私は神を信じていない」という言い方をするでしょう。なぜなら、自分のその考え方は改めた方がいいとは考えないからです。

他方、不可知論とはあらゆる不確実なことへの捉え方です。不可知論者には、神が存在するか否かがわかりません。人間には神の存在を確かめたり否定したりするための知識が無い、と考えるのです。不可知論とは臆病者の無神論のようなものだ、と考える人々もたくさんいます。これが理にかなっているにせよいないにせよ、人間は何かを信じなくてはならないという主張を持っているためです。

私たちには現実と架空のもの(妖精や人魚など)を区別するための理性が備わっているという事実に反論するのは不可能です。しかしながら、それでも現実世界における神の無存在をおおっぴらに否定することは難しいように思えます。

これらの用語の違いを区別することで、幅広い無神論的信条を支持するための根拠にはどんな種類があるのかを理解しやすくなります。一つの主張が無神論のいずれかのタイプの正当化には役立つかもしれませんが、それ以外の無神論には適用できません。

社会的烙印や政治的圧力、そして不寛容さなどの要因により、世界中でどれくらいの人数の無神論者がいるのかを予測することは困難です。もしかしたら数10億人くらいいるかもしれません!

無神論の正当化

無神論の微妙な違いとしてもう一つ、それを正当化する方法が人によって異なる、というものがあります。利用可能な情報やそれが暗示するもの、そしてどう解釈されるべきかについてはかなりの論争があるのです。また、論争や推論、信条、そして人間の生活における宗教的熱意が果たす役目に関するメタ認識論的懸念もあります。

無神論は、その証拠が神の不存在を示すことを主張するだけでなく、証拠に基づく信条への幅広いニーズを擁護するものでもあります。

無神論者たちは、超自然的なものが存在しない証拠が無いからといって、それを信じることは理にかなっていないと主張してきました。この意味で言えば、がん細胞を持っていない証拠が無いからといって自分にはがんがあると信じることも同じように非合理的だということになります。

神について議論することは論理的だと言えるのか?

無神論に対する他のアプローチについても見ていきましょう。議論の一形態に、専門家からはしばしば演繹的無神論実践と呼ばれるものがあります。この考え方では、神が存在することは不可能である、という結論が導き出されています。

もう一つの重要な議論グループは強い影響力を誇り、帰納的無神論というカテゴリーに分類されます。これらの確率論的議論は、自然界や苦しみ、無信仰、そして生物学的・宇宙論的発見を利用した考え方です。

また別のアプローチとして、非認知主義的無神論というものがあります。これは、神は有意義な存在であるという考え方を否定したり、あるいは神が真実か偽物かを判断する前提となる内容の存在を否定する考え方です。そうではなく、ここでは宗教的行為とはもっと感情の複雑性やスピリチュアルな情熱の現れに近いものだ、とされています。

一方で、神は意味のある存在であり、真実か偽物かの判断が可能であるという証言を許容しているという意味では、演繹的アプローチや帰納的アプローチは認知主義的だと言えるでしょう。

無神論の種類 微妙な違い

最後に

神は存在するのかしないのかという疑問は、生物学、物理学、形而上学、科学哲学、倫理学、言語哲学、そして認識論といった立場を超えて広がっています。無神論が正当とされるか否かは、この世界の全体的な概念的かつ解説的な説明を世間がどう採用しているかに左右されるのです。

私個人の意見としては、人それぞれ、神の捉え方は異なるのではないかと思います。神という宗教的な考え方に私は興味がありません。それは、私自身の実存の問題を解決してはくれないからです。つまり、何にも増して、これは個人的で主観的な判断だということです。全ての先進的な社会において、両方の主張が共存できれば理想的だと思います。