太陽王ルイ14世の生涯

11 5月, 2020
太陽王の名でも知られたルイ14世はフランス君主の中でも最も偉大な人物の一人でした。彼の統治下で、フランスは前例のない経済の繁栄を遂げました。

ルイ14世の両親はフランス王国国王ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュ王妃です。ルイ13世とアンヌは長年子宝に恵まれませんでしたが、1638年9月5日、ついにルイ14世が誕生しました。彼にはルイ・デユードネという洗礼名が授けられました。この待望の誕生は天の恵みとみなされ、フランス語で「神の贈り物」を意味するこの名が選ばれたのです。

ルイ14世は、自分の存在は神からの贈り物なのだと信じて成長しました。この信念は、その後若きルイ14世が、王に背く者は神に背く者だと確信しているという点にも特に関連しています。彼を取り巻く多くの人々と同じく、彼自身も、彼の命令は神の命令であると信じていたのです。

年を経るにつれ、ルイ14世は「太陽王」というあだ名で呼ばれるようになりました。彼が人類の歴史の中でも最もアイコニックな王の一人であることには間違いありません。長年に渡る治世にはどのような秘訣があったのでしょう?神聖な生まれであるという信念は、彼の政治に影響していたのでしょうか?この記事では、絶対王政の典型であるこのフランス国王について、詳しく見ていきましょう。

太陽王 ルイ14世

問題だらけの子ども時代

ルイ14世がフランスの国王になったのは、彼がわずか4歳の頃でした。当時のフランスの法律では、その瞬間から、この幼い王が1900万人もの人々の身体や財産の所有者であり、主人となったのです。

ルイ14世は当時、王位を継承するには明らかに幼すぎたため、母親であるアンヌ・ドートリッシュが摂政となりました。彼女はジュール・マザラン枢機卿を宰相とし、ルイ14世が相応の年齢になるまで政治決定に関する相談役を任せました。

ルイ14世への教育は、政治や経済に特化して行われました。彼がまだ少年だった頃、事故で溺れ死にそうになった際には、人々は母親の不注意を責めましたが、ルイ14世はとても幼い頃から多くの災難を経験しました。ルイ14世の成人を望まない人が多かったことも驚くべきことではありません。

ルイ14世が9歳のとき、パリ高等法院の貴族たちは王政とマザラン宰相に対する反乱を起こしました。これが「フロンドの乱」と呼ばれる長い内戦の始まりです。ルイ14世はこの期間を、屈辱や、貧困、恐怖、寒さ、空腹などに苦しんで過ごしました

この内戦はルイ14世の性格を形作り、彼の考えや行動に変化をもたらしました。結果として彼は、パリ、貴族、そして彼らを支持した人々を決して許すことはありませんでした

最終的に内戦に勝利したマザランは経済や行政の改革を始めましたが、これは後にルイ14世が治世中に完成させています。ルイ14世はマザランを尊敬しており、王位に就く年齢になった際も彼に宰相の役割を続けさせました。

ルイ14世は外交家としてだけでなく、軍人としての教育も受けました。彼は自国内部の政治情勢を完全に把握していました。愛する女性ではなく、スペイン国王の娘との結婚を承諾したのはそのためです。それはフランスとスペインの関係を平和に保ち、ヨーロッパ内でのフランスの支配力を増すための政略結婚でした。

太陽王 ルイ14世

ルイ14世の時代の始まり

マザランの死後、ルイ14世は全ての政治的権限を引き受ける決断をします。歴史的には国王はより社会的な存在であったことから、この決断は一部の相談役や貴族を驚かせました。しかしルイ14世は王権神授説を確信しており、フランスの絶対権力としての地位を守りました。彼はその後ヨーロッパで数世紀に渡って続いた制度を築きました。

54年の間、ルイ14世は1日のうち10時間を王国の運営に捧げました。どんな些細なことも見逃さず、どのような権限も委任することなく、自ら一切を管理しました。

彼は、自国の最大の弱点は貴族であり、彼らがフロンドの乱の時のように簡単に敵にまわる可能性も承知していました。これを防ぐため、都市郊外にある巨大なヴェルサイユ宮殿に全ての貴族を集め、住まわせることにしたのです。彼らは常に王に気に入られるように振舞いました。

この策略は、ルイ14世が権力を維持するのに好都合でした。彼には大きなスパイ組織があり、貴族たちによる王に背く計画があればどんな情報も耳に入ってきたのです。

ヴェルサイユ宮殿は中央集権国家の典型です。またそれは、数十年の間文化と学問の指針でもありました。

軍人とパトロンとしてのルイ14世

ルイ14世は芸術の支持者あり、後援者でした。彼は、大きな影響力をもっていた劇作家モリエールをはじめとする、偉大なる文学者たちのパトロンだったのです。また、碑文・文芸アカデミー(Académie des Inscriptions et Belles-Lettres)や王立音楽アカデミー(Académie Royale de Musique)を設立したり、パリ天文台の初代後援者を務めたりもしました。

もちろん、ルイ14世はフランスの主要な芸術家たちの多くのパトロンでもありました。こういった芸術家たちはヴェルサイユ宮殿で歌や演劇を披露したり、絵を描いたりしました。ヴェルサイユの庭園は、もしかするとフランスにおいて屋外最大の芸術作品のひとつかもしれません。王と宮殿の雄大さとは裏腹に、君主政治は人々や芸術から徐々に孤立していきました。その結果として、芸術は宮殿生活へと追いやられたのでした。

フランスは独立した国家でしたが、その王はまだ軍人の心をもっていました。ルイ14世はオランダを攻め、フランスの領土返還を要求しましたが、この任務は失敗に終わりました。その後まもなくフランスは、スペイン、大英帝国、神聖ローマ帝国から成る大同盟に対して戦争を行いました。

これによってフランスが失った領土はそれほど多くはありませんでしたが、経済的には打撃を受けました。銀行は脆弱化し、ルイ14世は豊かな国家の王から、貧困のはびこる弱々しい惨めな土地の君主へと変り果てました。

ルイ14世は77歳の誕生日の4日後に亡くなりました。当時これほど長生きすることはとても珍しいことでした。彼は当時最も長く生きた王の一人であるとされました。彼の死後、王位はブルゴーニュ公の末息子へと継承されましたが、当時彼はまだわずか5歳でした。

ルイ14世は偉大な王であったとして、彼の芸術や文化への貢献は現在もなお称賛されています。しかし同時に、彼は専制政治の生ける化身ともなりました。人の運命と性質は生まれた瞬間に決まるという、古い世界の価値観を深く信じていたのです。

ルイ14世は国に栄華と富をもたらしましたが、それを損ないもしました。太陽王はこれからも、フランスの歴史におけるアイコニックな存在でありつづけるでしょう。

  • Lossky, A. (1994) Luis XIV y la monarquía Francesa. Nueva Jersey: Rutgers University.