沈黙が贅沢な理由
沈黙していることが実はかなりの贅沢であると考えたことがあるでしょうか?この贅沢を謳歌できる人はほとんどいません。自分の時間をとることを阻害するルーティーンから抜け出すことを学んで初めて沈黙を楽しめます。しかし、人はこれらのルーティーンの奴隷になって、孤独や完全な沈黙を恐れます。
私たちの環境はあまりに騒音がうるさく、一人でいることや沈黙することがネガティブであるかのように考えることが当たり前になっています。沈黙によって不安になってくる人さえいます。このような恐怖の裏にあるものに関して、自分自身に質問を投げかけてみたほうがよさそうです。
気づかないうちに、人は意識的に沈黙を避けています。騒音から逃れる機会があるにも関わらず、騒音を求めます。自分自身に、何故沈黙を恐れるのか尋ねてみなくてはいけません。音が周りにないと、孤独に感じるのはなぜでしょうか?
音がないことに耐えられずに、一人でいるときラジオをつけますか?孤独と家の静けさが辛くて、混んでいる場所に行きがちですか?こういう人には、ヨガに行くとか瞑想するなんて、頭に浮かんでくる事さえないかもしれません。動かずにただ静かにしていることなんてストレスなだけなのです!
沈黙が必要な精神
この沈黙を達成することは容易ではなく、ちょっとしたルーティーンに沈黙を組み込むのはかなりの挑戦です。多くの欲望、熱望、興味は、音のある場所へ向かいます。外的な音も、内なる音も関係なく、とめどない思考は終わることがありません。
このテーマに関しては、多くの研究がなされています。ほとんどの研究が都会に住む人の生活と、田舎に住む人の生活を比較しています。騒々しい場所に住んでいたり、そのような場所で働いていたりする人、街の喧騒を耳にしながら眠りにつく人は、より健康問題が出やすいそうです。
循環器系の問題、ストレス、不安などは、このような問題の一部です。これらの病気の主な引き金を見てみると、人は立ち止まったり、リラックスしたりすることがないということが原因であるようです。自動操縦状態で何年も何年も同じように生きて、一つの刺激から別の刺激へ次から次へと移っていくことに慣れてしまっています。
沈黙は不快なものではなく、黙っていることで緊張する必要もありません。これは経験したくないことを正当化しようとしている思い込みです。人は何を恐れているのでしょうか?
私たちの精神は、沈黙を必要としています。音の不在によって、神経細胞は効果的に発達します。さらに、私たちの精神と体がリラックスし、問題の蓄積や騒音によって引き起こされた緊張の不安から解放してくれます。音があるとき、自分の考えることが聞こえません。そうなると、はっきりした明快な精神が持てなくなります。
自分から自分を奪い去る音と興奮
「騒音と落ち着きのなさは、 自分から自分を奪うようなものだ」と言うことがあります。自分を知るために時間を取っている人がどれだけいるでしょうか?毎日一日の数分を、心を落ち着かせてリラックスするための瞑想や祈りに捧げる人はどれほどいますか?よく無視してしまうような侵入的で不快感を引き起こす思考に向き合う人はどれだけいますか?これはとても複雑な状況です。緊急に対処すべき課題がたくさんあるせいで、自分の時間を後回しにしてしまいがちなのです…
沈黙していることとは、ただ瞑想を行ったり、精神を空っぽにしたりすること以上のものです。これは、かなり誤解された思い込みです。大事なのは、自動操縦モードで生きることをやめて、もっとこの瞬間を生きることを楽しむことです。特別なことをする必要はありません。おいしいご飯を食べて、味をかみしめて、お散歩のときに鳥の鳴き声を楽しむだけで十分です。
生きているのか、存在しているのか
これこそ生きるということです。音に常に囲まれていることは、生きていることではなくただ存在しているだけです。何のために存在しているのか?すべきことだけをして、楽しもうともしていません。自分を大切にしたり、自分を甘やかしたりすることもありません。あるいは、自分に相応しい重要性を与えることもしません。人は、自分自身のものではない外的な動機、理由、大義につきうごかされていることがほとんどです。
「沈黙が耐えられないという人がいる。自分の中に声が存在しすぎるからだ。」
-ロバート・フリップ-
沈黙から逃げないでください。テレビを消して本を読んではどうですか?音楽を聞かずに公園で運動してみてはどうでしょう?毎日の生活の中で、絶え間ない騒音にさらされています。自分の時間を作る機会があるときに、騒音状態ににいる必要がありますか?自分や自分の周りとつながりを持つことを恐れていますか?あなたは何から逃げようとしているのですか?