ドラマ『グッド・プレイス』:死を受け入れるには?
私たちは皆人間であり、全ての人間には生と死が待ち受けています。それが世の常というものです。誰もがこのことには気づいてはいますが、すべての人がそれを受け入れられているわけではありません。この逃れられない事実を受け入れるにはどうすればいいのでしょうか?もちろん、それぞれの文化によってこのジレンマへの向き合い方は異なります。例えば仏教の伝統では、人は生きると同時に死んでいるものであり、これらはまとめて一つの経験なのだと説いています。しかし一方で、死について話すことをタブー視する社会も存在するのです。
では、死ぬこと以上に必然的なことなどあるのでしょうか?そんなものが存在しないことに気づいても、打ちのめされたように感じてはなりません。そうではなく、この人生にはつきものの死という現実を乗り越えられるよう、全ての人が知恵やスキルを発達させるべきなのです。死について理解するというのは、必ずしも深く悲しむ気持ちを失くすという意味ではなく、この事実をごく自然なものとして受け入れていくということを意味します。
タイムズ紙は、倫理哲学者バートランド・ウィリアムズを、彼の世代では最も重要で最も優秀な倫理哲学者であると見なしています。もし私たちが不死身の存在だったとしたら、私たちは驚きを享受する全ての能力を失っているだろう、というのが彼の考え方です。終わりがある方が、あらゆることがもっと楽しめるように思えるからです。
“良く整理された頭脳の持ち主にとって、死とは次なる壮大な冒険以外の何物でもない”
-J・K・ローリング-
必然の運命を受け入れる方法
死について理解するのに役立つものといえば、どんなものがあるでしょうか?実は何も、あるいはほとんど何もありません。あるのはただ、婉曲表現や回りくどい表現の数々、そして比喩や寓話ばかりなのです。しかし、人生の儚さに気づいている哲学者であれば誰しもが、多くの人々を悩ませ、あらゆるものの終焉とともにやって来る死というものついての思いを巡らせているはずです。
また、人々は死ぬことが全ての終わりだと考える傾向がありますが、自分も死ぬのだという事実を毎日噛みしめるような人などいないように思えます。スペイン人エッセイストで詩人のラモン・アンドレスは、「死こそが全ての中心である、なぜなら死を意識することによって生きる意味や動機までもが湧いて来るからだ」と述べました。どういうわけか、私たちが人生に抱いている観点を超越したり、死を受け入れたりする姿勢は、東洋文化だけの問題のように思えます。
しかしながら、私たち全員が認めるべきことが一つあります。それは、死が人間の命の価値を高めているという事実です。とは言っても、死の後には何が待ち受けているのでしょうか?誰もがこの問いへの答えを知りたがっていますが、答えられる人などいません。それはおそらく、死について形式立てて説明するのが不可能だからなのでしょう。この必然的な運命を受け入れていくにあたり、この疑問は保留にするしかないようです。
哲学では、死を実に様々な方法で取り上げます。私たちが死すべくして生まれてきたのは事実です。しかし、それがいつどのように起こるのかはわかりません。中には、自分の死期や死因について何年間も思い悩みつづている人々もいます。
人生の中で踏み出すステップ一歩一歩が、死に近づいていく道筋を辿っています。私たちは差し迫った終焉か、あるいはスタート地点のどちらに向かう道を選んでいるのでしょうか?こう言った疑問が、生と死の意味について長年にわたって議論してきた哲学者たちの好奇心をくすぐっているのです。
生と死は、波に少し似ています。波が生まれると形ができていき、大きくなり、岸に届く頃には水は消え、海に帰っていく様はまるで人生のようですよね。
“死に関しては、悪いことなど何もない。ただ一つ、生きている間に襲ってくる死への恐怖心を除けば”
https://youtu.be/RfBgT5djaQw
死を、生きる手段として認識する
テレビドラマシリーズ『グッド・プレイス』では、各エピソードごとに異なる哲学理論が用いられ、人間の命に関する本質的で倫理的な疑問が示されます。ただ、主な登場人物はすでに死んでいるというのがポイントです。このドラマは私たちを、人類の歴史上最も頻繁に問われたであろう質問の一つと向き合わせてくれます。その質問とは、「死んだ後には何が起こるのだろうか?」というものです。
死後の世界を、願い事を全て書き出してそれらを永遠に叶えてもらえるような楽園だと想像している人も多いでしょう。しかし、もしそれに制限があるとしたらどうですか?『グッド・プレイス』では、このシナリオを前提に物語が進んでいくのですが、それが結果的に誰も満足のできないニヒリズムに繋がっています。
このドラマでは、死後の世界で暮らす善良な人々は何世紀もの間退屈を感じていて、知識も失い、カクテルを飲む以外に何もやる気を起こさずにいる、という設定になっています。結末のネタバレをするつもりはありませんが、ただ一言、最終回が、生と死との間の和解の賛歌のような終わり方である、とだけ言っておきましょう。
死すべき宿命を背負っていることで生きることの意義が生まれ、死こそがその意義の道しるべとなってくれるのです。死というものの存在が、個人個人に対して自分がこの世界でどんな役割を担い、自らの行動でどんな結果を作り出したいのかを真剣に考えさせるきっかけとなっています。
もちろん、死という必然の運命を受け入れるのは容易いことではありません。死は、非常に重要で避けては通れないテーマだと言えるでしょう。なぜなら生涯のうちに誰しもがなんらかの形で死と向き合わざるを得ない時が何度か訪れるからです。
“私たちは全員死にます。人間のゴールとは永遠に生きることではなく、永遠に存在し続けるであろう何かを創造することなのです”
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