ダンカン・ジョーンズ監督作『月に囚われた男』

映画『月に囚われた男』は、そのゆったりしたペースと人間の条件についての超越的な疑問が特徴的な、古き良き時代のSF映画への賛辞のような作品です。月を先進的な、宇宙開発競争的な視点で描写するのではなく、人類の生存をかけた最後の希望の場所として映し出しています。
ダンカン・ジョーンズ監督作『月に囚われた男』
Leah Padalino

によって書かれ、確認されています。 映画批評 Leah Padalino.

最後の更新: 21 12月, 2022

2009年まで、ダンカン・ジョーンズという人物について知る人間などほぼ一人もいませんでした。デヴィッド・ボウイの息子だと知っていたのはごく一部の人々だけです。しかしその年、彼は驚異的な監督デビュー作『月に囚われた男』とともに映画界に彗星の如く名を轟かせることとなったのです。

父の後を追って音楽の道に進むのではなく、ジョーンズは別の芸術を極めることに身を捧げました。それが、映画を作ることだったのです。博士号を目指す哲学科の大学院生だった彼は、学生生活を映画界への進出とともに終えようと決意します。結果的にその決断が、本日の記事のテーマである彼の初監督作品に繋がりました。

それほどまでに高名な父親がいるのであれば業界人とのコネも多く、映画の世界へ参入するのも簡単だったであろうことは容易に想像がつくでしょう。しかし、ボウイという父親の名前を使えば資金の入手も簡単に済んだであろうにも関わらず、代わりに彼はダンカン・ジョーンズとだけ名乗ることを決意しました。その結果、彼の映画の予算は非常に制約のある金額となってしまったのです。

慎ましやかな始まりだったものの、『月に囚われた男』は人々の予想をはるかに凌ぎ、驚くほどの賛辞とともに受け入れられました。そして2009年のシッチェス・カタロニア国際映画祭では最優秀作品賞などいくつかの賞を総ナメにしました。

サイエンス・フィクション

サイエンス・フィクション映画といえば、その成功の行方は壮大な特殊効果や巨額の制作費にかかっているという方程式があり、制作できるのはハリウッドの大物プロデューサーたちだけのように思われることがしばしばです。観衆たちはそれを当たり前のことと考えています。いや、考えていました、『月に囚われた男』が公開される前までは。

『月に囚われた男』はそういった全ての固定観念を打ち破ったのです。これは、人間でいることは何を意味するのかという、形而上学的で人類特有の疑問について塾考している奥深いSF映画です。たった一人の役者と限られた資金から、ダンカン・ジョーンズはシンプルで内省的な、ゆったりしたペースの映画を作り上げました。『月に囚われた男』は控え目でありながらもエレガントな作品で、いくつか興味深い名台詞も残されています。

物語の前提はシンプルで、過度に不合理なものではありません。観客は、そう遠くない未来の世界へ連れ出されますが、その世界では地球上の資源が尽きてしまっているため、人類は別の場所を探し求めています。その別の場所が、月です。

私たちにとってもおなじみのこの衛星は鉱山となり、ルナインダストリーという会社がそこへ3年間の任務のために一人の宇宙飛行士を派遣します。

その宇宙飛行士サム・ベルは、地球上でエネルギーを作り出すのに必要な物質を抽出する採掘機の操作を担当しています。コミュニケーションのための衛星は故障していて地球とリアルタイムで交信することができないため、彼の孤独は深まっていました

その他のSF映画へのオマージュ

衛星の故障よりも大きな問題がこの会社には生じていたため、ベルが持つ唯一の家族とのやり取りの方法は、録画メッセージを介したもののみでした。彼の唯一のお供は、キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』に登場する人工知能HAL 9000を思い起こさせるようなロボットのガーティです。

ジョーンズの『月に囚われた男』に登場するキューブリック作品への言及はそれだけではありません。この映画にはオマージュがふんだんに取り入れられており、SFを再発見したキューブリック映画からのシーンと酷似したシーンさえもがいくつか見られます。さらに、『月に囚われた男』の中でジョーンズがトリビュートを捧げているのは、『2001年宇宙の旅』だけではありません。その他にも『エイリアン』(スコット監督、1979年)や『惑星ソラリス』(タルコフスキ監督、1972年)などへのオマージュが登場しています。

また、この映画は『インターステラー』(ノーラン監督、2014年)や『アド・アストラ』(グレイ監督、2019年)、『ハイ・ライフ』(ドゥニ監督、2018年)といったより最近の映画の先駆者的存在でもあります。これらすべてが、SF映画、特に宇宙に関連するSF映画が年月を経てどう進化してきたかを考えさせてくれるような作品です。

SFジャンルの進化

太古の昔から、人間は強い好奇心を持って空に関心を寄せてきました。私たちは宇宙の果てまで星や天体を観測し続けてきたのです。そんな中、最も偉大な初期のSF映画の一つに『月世界の女』(フリッツ・ラング監督、1929年)があります。

この映画は、上手い具合に二つのパートに分けられています。一つ目のパートでは、月旅行の計画が紹介され、第二部で描かれるのは旅自体です。この映画が作られた当時、人類はまだ惑星や宇宙の征服を夢見ていました。その可能性が、進歩や進化の証として、祝福されるべきものとして見られていたのです。

宇宙開発競争

時は過ぎ、1968年。この年、映画製作者のスタンリー・キューブリックが宇宙関連SF映画の道筋を変えました。『2001年宇宙の旅』はラング監督の提示したモデルを完成させた上、並外れた視覚効果が取り入れられています。

キューブリック監督は全てを予測していたようです。彼は月面着陸の一年前に公開しました。つまり、宇宙開発競争の真っ只中の時期です。彼はマシンが人類にとって脅威になりかねないことを理解していましたが、結局は希望的観点を選んだのです。

『月世界の女』では、宇宙旅行の夢が果たされる様子が描かれました。一方でキューブリックが示したのは、当時まさに起こっていた宇宙開発競争が行き着く可能性のあった結果でした。

そのことを念頭に置いて現在の状況について考えてみるといいかもしれません。宇宙開発競争が悲惨な結果に終わった今でも、人々はまだ宇宙の偉大さについて夢を見続けているのでしょうか?

その意味では、『月に囚われた男』はかなり悲観的な未来像を描いていると言えるでしょう。この映画の中で、地球は資源を宇宙に探しに行かねばならないほど人類の手で破壊されてしまっています。しかし、ここでの目標は地球に戻った時の生活をより良いものにすることです。

気候変動の時代、世界は荒れ果て、宇宙が最後の希望となっています。 『月に囚われた男』以前の作品にも見られた孤独という感覚が、この映画ではさらにわかりやすく強調されています。

『月に囚われた男』では、主人公の男自体だけでなく、彼が失った時間や、騙し、大企業などの他のテーマも扱われています。SF作品の多くが、現代社会の現実について深く考えるための機会を与えてくれますが、『月に囚われた男』ではもう夢や希望など全く見られません…あるのはただ荒廃と寂しさだけです。

ダンカン・ジョーンズ監督作 『月に囚われた男』

SFの文脈

『月に囚われた男』では、SFという要素が人間でいることの意味について熟考するための文脈として使われています。おそらく内省的な部分もあるのですが、それと同時に大企業が従業員の人権を奪っているのではないかという意見についても触れられているのです。

この映画の美しさは、その少ない制作費にも関わらず、思慮深く繊細に作られている点にあると言えるでしょう。また、主演のサム・ロックウェルは役に息を吹き込み、歳を取ったバージョンの自分自身と向き合う様子を長時間に渡って上手く演じきっています。

ジョーンズ監督が観客に提示したのは、二人の男性です。彼らは互いが自分と同一人物だと言いますが、それぞれ生きている段階が異なります。これが二人の間に対立を生み、「人間の本質は変わらず、動揺することもないものなのか?」という疑問を投じるのです。自分自身の存在は時間や環境によって変化するものなのでしょうか?

『月に囚われた男』はそのシナリオに私たちを誘い込むのです。ここでは、年老いた自分が若い自分と直面していますが、二人が互いに一致することは永遠にありません。過去の自分に会いに行くことを想像していただければ、皆さんもこの映画の主人公と同じような状況になってしまうことでしょう。

彼らは二人の別の人間なのでしょうか?それとも異なる状況にいるだけで同じ人物なのでしょうか?この映画を観ると、視聴者の頭にはいくつかの疑問が浮かんできます。

ダンカン・ジョーンズが、この映画が自己の二分法について扱ったものであるという事実を隠していた訳ではありません。ただ、鑑賞前にどんな映画なのかを知らない状態で観た方がより興味深い鑑賞体験になることは間違いなかったはずです。

『月に囚われた男』は冒頭から展開が予想できてしまう映画ではありますが、それでも巧みに私たちの視線を初めから惹きつけ、驚かせ続け、全体を通して楽しませてくれます。また、現代のほとんどのSF作品に見られる凄まじい速さのストーリー展開に比べて、この映画のゆったりとした進み方はありがたい変化と言えるかもしれません。それが、息の詰まりそうな慎重な雰囲気の現実を思い出させてくれるのです。

人類としての本質的な疑問

過度なアクションを描くことなく、『月に囚われた男』は人間であることが何を意味するのかに関する超越的な疑問の数々を投げかけることに成功しています。これらの疑問が示しているのは、SFには、ディストピア的アートと呼ばれる、搾取的な企業活動を明らかにし、自由や人間性を奪うような行為、そして進歩などの考え方に疑問を呈するアートを連想させられるような重要な要素がまだ含まれているという事実です。

『月に囚われた男』は、古いSF作品から着想を得つつ、こういったアイディアをエレガントに、しかし独自の方法で描き出すことに成功しています。ジョーンズの作り上げた後世に影響を残すであろうこの作品は、ゆっくりとしたペースで過去のSF映画を評価しながらも、現代社会の現実について疑問を投じてもいるのです。

彼の視点は数十年前の宇宙開発競争への熱意からは程遠いところにあります。『月に囚われた男』では、宇宙への冒険が必要性に迫られて行われています。月にある資源だけが、人間に残された最後の希望なのです。


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