エドモニア・ルイス:自分の運命を変えた開拓者

白人男性が主力である世界で、エドモニア・ルイスは黒人として、そして女性として声をあげた人物です。彼女はアフリカ系アメリカ人、そして先住民のルーツを持つ人物として、彫刻の世界を通して世界をつなげました。
エドモニア・ルイス:自分の運命を変えた開拓者
Gema Sánchez Cuevas

によってレビューと承認されています。 心理学者 Gema Sánchez Cuevas.

によって書かれた Camila Thomas

最後の更新: 22 12月, 2022

マリー・エドモニア・ルイスはアメリカ人彫刻家ですが、ローマで芸術家として活躍しました。自由にニューヨークで育ったエドモニア・ルイスは、アフリカ系アメリカ人女性として初めて世界的な名誉を得た人物です。また、彫刻家として芸術の世界で脚光をあびた、最初のアフリカ系アメリカ人でもありました。

19世紀、20世紀のアメリカの芸術家の多くは自国で有名になることが多かったので、エドモニア・ルイスは特別な一人と言っていいでしょう。今回は、彼女の人生、作品、そして、彼女がどのようにして社会が彼女に押し付けていた障害を乗り越えたのか、どのようにして逆境の中世界的に称賛を得たのかについて紹介します。

エドモニア・ルイスの幼少時代

エドモニア・ルイスはニューヨーク、グリーンブッシュに黒人女性として1844年に生まれました。彼女の兄は、のちに金鉱で成功を納め、富を得ることとなります

エドモニアは紳士に仕えていた黒人使用人の娘で、彼女の母も黒人で、オジブワ(オジブワは、チェロキーとナバボスと並ぶ北米の主要原住民族の1つです)のとアフリカのルーツを持つ人物でした。

エドモニアは、10歳の時に両親を失っています。彼女はのちに、ナイアガラの滝近くに住んでいたオジブワの家族に育てられたと述べています。

マリー・エドモニア・ルイスにはそれほど知識、経験があったわけではありませんが、兄の力を借りて、オハイオ州の、オーバリン大学で勉強することとなります。1860年から1863年まで在籍し、才能溢れる芸術家として成長します

この時期、奴隷制廃止主義運動がオーバリン大学でも活発になり、このことが、エドモニアのその後のキャリアに影響を与えることとなります。

「自由な森ほど、美しいものはない。お腹が空けば、魚を獲って、木の枝を切って火を起こし、焼いて、済んだ空気の中で食することができる。これこそ、本当の贅沢だ。」

―エドモニア・ルイス―

成功の代償

エドモニア・ルイス

若かったエドモニアは、認められる芸術家になるために数多くの障害を乗り越えなければなりませんでした。オーバリン大学在学時には、2人の白人学生に毒をもったと濡れ衣を着せられ、その後、白人の一団に暴行を加えられました。ルイスはなんとかその暴力による怪我や痛みから回復し、彼女に対する告発が却下されてからボストンへと引っ越しています。

ボストンでは、ルイスは奴隷制廃止主義者であったウィリアム・ロイド・ギャリソン、また、ルイスに彫刻を教え、彼女のスタジオの成功を手助けした彫刻家のエドワード・A・ブラケットと親交を深めます。

1860年代の初期、ルイスは作品で賞を取り始め、芸術の世界で名が知られるようになりました。彼女の粘土や石膏で作った円形の浮き彫り作品は、ギャリソン、ジョン・ブラウンなどの奴隷制廃止主義者をかたどったもので、ビジネスとして、成功する一歩となりました。

その後、ルイスは全黒人部隊の第54マサチューセッツ歩兵連隊の大佐であったロバート・ショーの胸像を作りました。この作品のおかげで、彼女は初めて商業的な大きな成功を手にすることとなります。

この胸像を販売した収益で、彼女はローマに引っ越します。彼女がローマに引っ越しを決めたのは、すでに移住していたアメリカ人芸術家が多かったからです。チャンスを求めてローマに移住していた女性も多数いました。

ルイスと彼女のローマでの生活

ルイスはイタリアで芸術家として活動を続けました。彼女のバックグランドであるアフリカ系アメリカ人の文化をテーマにした作品が多く、その次に信仰していたカトリック教を題材としたものを作り上げました。

彼女の代表作の中に、黒人の女性と男性が、奴隷制の圧迫から抜け出そうとしている姿を描写した彫刻、「フリーフォエバー」(1867)があります。ルイスはまた、アブラハム・リンカーンや、ユリシーズ・S・グラントなどのアメリカ大統領の胸像も制作しました。

また、彼女の別の文化的背景を見て取れる作品が、「矢職人」(1866)です。これは彼女の原住民の背景からインスパイアされたものだとされています。この作品では、父親が娘に矢の作り方を教えている姿が描写されています。

また、彼女の代表作の中には、エジプトの王女クレオパトラを描写した「クレオパトラの死」という作品もあります。この作品は1876年フィラデルフィアの世紀の博覧会で展示され、2年後にはシカゴでも展示されることとなり、評論家たちの称賛を集めました。この2トンの重量がある彫刻は、ルイスがその膨大な運送費を支払うことができなかったため、イタリアに戻されることはなく、彼女はどこかに保管しなければならない羽目になります。彼女の死後数十年後、発見されたと言われています。

最後の数年と遺産

エドモニア・ルイス 彫刻

彼女の幼少期のように、エドモニア・ルイスの最後の数年間に関しての情報はあまり残されていません。しかし、1890年代まで彼女は作品の展示を続けたことはわかっています。またフレデリック・ダグラスが彼女を訪れてローマにやってきたこともありました。彼女は結婚することなく、子供がいなかったということもわかっています。彼女の最後の10年に関しては、ほとんど情報がありません。

ルイスは最期をローマで過ごしたとする説もあります。しかし、近年になって、彼女の死亡届けが発見されました。それによると、彼女は1907年ロンドンで、63歳でなくなったとされています。

彼女の「黒人」という肩書にも関わらず、生前に彼女は作品により評価を得ました。しかし、芸術の世界が彼女の作品の素晴らしさに降伏した彼女の死後に、彼女の作品は真の称賛を得ることとなります。20世紀の終わり、ルイスの人生と作品は死後の称賛を得て、作品は各地で展示されました。

彼女の代表作の数点は、スミソニアン・アメリカ美術博物館とメトロポリタン美術館で、常設展の一部として展示されています。また他の作品もクリーブランド美術館とハワード大学のアートギャラリーにも展示されています。


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