ヨーロッパを襲った黒死病

中世のヨーロッパで大流行した黒死病によって、ヨーロッパの人口の少なく見積もっても30%、最高で60%が減少したと言われています。
ヨーロッパを襲った黒死病
Juan Fernández

によって書かれ、確認されています。 歴史家 Juan Fernández.

最後の更新: 21 12月, 2022

ある日、汚染された貨物が貿易がさかんに行われていた人口10万人の港湾都市に到着しました。それから 1か月もたたないうちに、この伝染病の流行で毎日300人もが命を落とすことになったのです。最終的に、町民の10%が死亡したこの感染病は、黒死病として知られています。

黒死病(ペスト)の正確な原因は未だに不明です。老若男女、農民、職人、聖職者、騎士など年齢や性別、地位に関係なく感染症は襲いかかりました。死から逃れることはだれもできなかったのです。

これはゾンビの出てくるホラー小説ではありません。1348年バレンシアで、アラゴンの王がこの伝染病を黒死病と名付けました。自分に置き換えて、その当時の人々の行動を理解し彼らが一体何を考えていたのか、黒死病とどのように向き合ったのか想像してみてください。この記事では、黒死病がどれほど恐ろしく多くの命を奪ったのか、その概要、影響についてご紹介します。

黒死病 ペスト

ヨーロッパ中で流行した黒死病

黒死病は、14世紀半ばにヨーロッパで大流行しました。歴史上最悪と言われ、ヨーロッパの人口が3分の1から半分になったとも言われている大惨事です。

この感染病は14世紀以前から存在し、流行が過ぎても多くの人が命を落としています。しかし、記録に残る歴史的な感染症の最初の流行は、542年から543年にかけてユスティニアヌス1世治下の東ローマ帝国で流行したものだと言われています。それ以後爆発的な流行は見られませんでしたが、14世紀になって再び黒死病はヨーロッパで猛威をふるいました。黒死病は、ハンセン病よりも多くの人が恐れたと言われています。

モンゴル帝国の軍事行動で東洋の黒死病がヨーロッパに持ち込まれたのが原因であるという説が有力です。クリミア半島のカッファの城塞を包囲したモンゴル軍は、悪魔のような計画を考えついたのです。黒死病に感染した死体をカタパルト(大型のパチンコのような武器)にのせて、城壁ごしにカッファの町へ投げ込んだのです。

黒死病は防衛側にも瞬く間に発生し多くの人々が命を落としました。生き残った者たちは船へと退却し、ペスト菌をともなって西側諸国へ向け船出しました。こうして地中海を介して、感染病はヨーロッパで流行することとなったのです。

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襲いかかる黒死病

しばらくの間、人々は黒死病は空気感染によるものだと考えていました。腐った死体の匂いや、ギリシャ医学、占星術の迷信などが全て空気感染説を後押ししていたからです。しかし現在では、ペスト菌を媒介するノミと感染したネズミによるものであると考えられています。このため非常に早く感染が広がったと考えられています。

多くの港や都市で、爆発的な感染がみられました。都市から逃げ出した人々によって田舎でも流行するようになりました。死者は増える一方で、主な交易路や巡礼道は黒死病で溢れかえっていました。

黒死病 ペスト 大流行

死に直面して

今日、多くの専門家はこれが腺ペストが原因であったと考えていますが、エボラや肺炭疽など他の流行であった可能性も指摘されています。いずれにせよ、その症状は想像を絶するものだったのに違いありません。名前の由来にもなった黒い斑点、咳、妄想、炎症などは、差し迫った死の警告サインでした。動物や空中感染のほかに、血液感染も非常に深刻でした。多くの医師も、感染病にかかり命を落としたのです。

この大流行は、飢餓、孤児の増加、作物の損失など様々な影響をもたらしました。また、黒死病が直接的な理由であった場合と、この病気とは関係のない死を区別することは非常に困難でした。

黒死病による影響

フランス、イギリス、イタリア、スペインの人的損失は50%または60%と言われており、地域によってはそれ以上の割合で人々が亡くなりました。カスティーリャのアルフォンソ11世も、ジブラルタルを攻略中に、命を落としました。百年戦争さえも停戦に至ることになったのです。

黒死病の後、多くの混乱がありました。当時、ユダヤ人はスケープゴートにされました。ユダヤ人が井戸に毒を盛ったのが原因だ、などと言う噂からユダヤ人に対する虐殺が起こったのです。退廃的な社会では、慣習主義は意味を持ちませんでした。また、絶望的な形のカルペ・ディエム(今この瞬間を楽しむ)という意味で、多くの売春がみられました。許しを乞うことが当たり前となり、人々は差し迫った死の前に罪を取り除くことを望んでいました。

黒死病

不思議なことに、経済的結果として黒死病によって多くの土地が解放されました。生き残った農民の多くが、持ち主を失った土地を手に入れたのです。死の瀬戸際にある社会では、他人の死は生きている人にとっての贈り物を意味しました。生き残った農民の待遇が良くなり、農奴解放がさらに進むことなったのです。またそのような社会変動の中から、人間性の解放を求めてルネサンスといわれる文芸や美術での動きが活発になっていきました。


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  • Benedictow, Ole (2011) La Peste Negra (1346-1353). La historia completa, Akal.
  • Martin, Sean (2011) The Black Death.

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