不思議な女性、エミリー・ディキンソンの一生

アメリカ人詩人の中でも最も不思議な人物の一人とされているのがエミリー・ディキンソンです。彼女について明確に言えることは、彼女は書くことを通して何度も何度もあらゆる物の境界線をなくしてきたことです。ユニークな存在だった彼女は、その人生において多くの伝説を生みました。
不思議な女性、エミリー・ディキンソンの一生

最後の更新: 02 6月, 2020

エミリー・ディキンソンは、歴史上最も偉大な詩人として数えられている人物の一人です。ですので、その生涯において出版した詩のうち、わずか6編のみが成功と呼べるものであったという事実には大変興味深いものがあります。

ディキンソンという女性の生涯の多くについては、学者たちも未だに理解できていない面が多く、あらゆる憶測を呼んでいます。それほどまでに彼女は謎めいた女性でした。

その謎の一つに、300編以上もの情熱的な愛の詩歌を彼女が誰かに向けて書いていたことが挙げられます。この偉大な愛の向けどころが誰だったのかは知る由もありません。ディキンソンに恋愛におけるパートナーは一人として存在しなかっただけに殊更です。実際、ディキンソンは独身のまま、そしておそらく処女のまま亡くなりました。

「本を読んでいて、火では温められないくらいに体が冷えきってしまったら、それは詩なの。」

エミリー・ディキンソン

加えて解明されていないのは、彼女がエキセントリックな癖を持っていたのかどうか、あるいは深刻な情緒の問題で苦しんでいたのかどうかということです。ただ明らかに分かっていることは、彼女が非凡なる詩人であったこと、それもエドガー・アラン・ポーやウォルト・ホイットマンといった偉大な詩人に匹敵する詩人だったということです。

エミリー・ディキンソン 人生

エミリー・ディキンソンの幸せな幼少期

エミリー・ディキンソンは、ニューイングランド地方の高貴な家庭に生まれました。プロテスタントとピューリタンの伝統を非常に重んじた家族だったことから、この影響が彼女の人生や詩に色濃く表れています。とは言え、彼女は自分のスタイルを完全にこうだと定義することはありませんでした。時に古典的な神秘主義であるようで、時に異端児のようでもありました。

エミリー・ディキンソンは、1830年12月10日、マサチューセッツ州のアマーストで産声を上げました。彼女の父は(家族では父以外もそうでしたが)政府の重要な役人でした。

ディキンソン家は、その地で最初の女子校と呼ばれた学校のうちの一校を開校しています。当時、女児が正当教育を受けることはあまりなかったため、こうした学校の開校というのは稀なことでした

こうして、未来の詩人となるエミリーはその地の小学校に通い、科学の基礎を学びました。また、彼女は叔母からピアノのレッスンを受けたり、他にもプライベートレッスンを受けたりしていましたレッスンの中にはガーデニングや園芸などがありこうした作業を生涯愛することになりました。また同様に、彼女は天文学のファンでもありました。

若き不思議な女性

エミリー・ディキンソンは基礎教育を終えると、若者のために開かれた神学校に進学しました。そこでは学術的な勉強をしたものの、彼女の主たる目的は敬虔な宣教師たちを教育することでした。

教師達にはそうした活動に専念するようにと提言されましたが、考えに考えた末、彼女は宣教師教育を止めることにします。そのため、彼女は「非改宗者」として卒業しました。

実は、彼女が神学校を後にしたのは健康面で問題があったためでした。彼女が大変幼い頃から詩の虜であり、クラスメートのために作り話をしてあげるのが大好きだったのは学者達に知られていることです神学校を出ると、彼女は実家へ戻り、その後はずっと実家で暮らしました。

そんな彼女に強い興味を抱いた男性が二人います。一人は、ベンジャミン・フランクリン・ニュートンです。彼は聡明・知的で、彼女に読書をすすめては彼女の知性を褒めました。しかし、恋人候補ともなり得たこの男性は結核を患っており、おそらくそのせいで彼女に近づくことは許されませんでした。やがて彼は亡くなり、エミリーはその死にひどく胸を痛めました。

もう一人の男性はチャールズ・ワズウォースという、牧師でありピアニストでもあった男性です。彼は既婚者だったので、「誘惑に堕ちて」しまわないように二人の間で距離を取っていたとされていますですが、この事実は確認が取れていません。エミリーは彼を深く慕っていましたが、彼もまた亡くなってしまいます。

エミリー・ディキンソン

エキセントリックさと天才肌

彼女の伝記を著した作家の多くが、彼女の記した愛の詩はこの二人の男性に捧げられたものだと憶測しています。ですが、最も有力な説は、彼女の愛の対象はスーザン・ギルバートだったというものです。スーザン・ギルバートはディキンソンの幼少期からの友人で、兄の妻でもありました。エミリー・ディキンソンの恋愛について様々な謎がついてまわるのはこれが理由なのかもしれません。

ディキンソンは、自身の作品を出版することを拒んだだけでなく、最も近しい人にさえ見せることを拒みました。その結果、彼女の生前には1800編ある詩の中からわずか6編しか出版されなかったのです。

ディキンソンは、生涯最後の15年間を人目を避け、まずは自分の家にこもり、やがては自室にこもる形で自身を隔離して過ごしました。また、彼女は白い服しか着ないという習慣を取り入れ始めました。

その期間中、彼女が外に出るのは庭仕事をする時するくらいで、それ以外の時間はずっと屋内で過ごしました。そしてエミリー・ディキンソンは、1886年5月15日に腎臓の不具合で亡くなりました。

姉のエミリーを生涯慕ってやまなかった妹のヴィニーは、後に姉が隠していた、詩がしたためられた40冊ものノートを見つけました。エミリー・ディキンソンの素晴らしい作品を世に広めたのはヴィニーなのです。


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  • Chávez, F. E. (2007). El silencio de Dickinson. Lectora: revista de dones i textualitat, (13), 61-68.


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