『般若心経』、知恵に溢れた仏教書

『般若心経』は、最も深く仏教の哲学の真実に近いものです。『金剛般若経』と並んで仏教における最も知恵に富んでおり、目覚めの空虚さやその概念がもたらす啓蒙について私たちに教えてくれる書物です。
『般若心経』、知恵に溢れた仏教書
Gema Sánchez Cuevas

によって書かれ、確認されています。 心理学者 Gema Sánchez Cuevas.

最後の更新: 19 3月, 2020

『般若心経』は幅広い認知度を誇る仏教学派の書物で、他のどの仏教書よりも多く研究され、調査されてきました。その簡潔さや、仏教的見解の巧妙なまとめ方により、この哲学の多くの支持者たちを惹きつけています。

これほどまでに短い文章が仏教徒たちによってそれほど徹底的に調査され、同時に完全に理解するのに一生涯を要する教えとされているのは興味深い事実です。『般若心経』はたった14節で構成されており、原典はサンスクリット語で書かれています。そして仏教の中でも最も強力と考えられている真言で締めくくられます。

『般若心経』の起源は紀元前1世紀にまで遡りますが、中にはもっと古くからあるものだと考えている人々もいます。この書で触れられているのは、「空」や「執着」、「非」、「色」、「心」、「識」といった仏教の中心的な概念です。

般若心経 知恵 仏教書

「空」と『般若心経』

『般若心経』のほぼ全体で「空」という概念が中心となっています。 しかしこの概念には、西洋人が考えるところの単なる「何もない」という状態以上の意味合いが含まれています。

「空」は「非存在」や「欠如」とは異なります。なぜなら存在しない物あるいは人の「空」は、その非存在性によって埋め尽くされているからです。同じことが不足という概念にも当てはまります。それはただ空っぽというわけではなく、失われている何かが想像上存在しているのです。

仏教徒が「空」について話すとき、彼らが言わんとしているのは本質的な実在を有する存在など何もない、ということです。つまりこれは全てのものが変化し、永遠に形を変え続けるということを意味します。言い換えると、抗わずにありのまま存在し続けるということです。私たちが感覚的に捉えているのは物事の外見にすぎません。だからこそ私たちは現実はものに溢れていると考えていますが、実際にはそうではないのです。

「空」は存在するもの全ての諸行無常と関連しています。いかなるものも、それ自身と他のものとを完全に区別することはできず、純粋なものと不純なものを区別することも、完全なものと欠陥を区別することもできません。

実際に「存在している」のは、我々を自分たちが知覚する現実と結びつける精神形成です。しかしそういった精神形成は現実ではありません。現実はそれ自体で独立しており、どの瞬間も変化しているのです。たとえそれを私たちが感じ取っていないとしてもです。

謎めいた真言

正反対のことを指摘する思想もあるものの、真言とは幸運を運んでくれたり特定の目標を達成させてくれる魔法の言葉というわけではありません仏教では、真言はあるレベルの瞑想状態に達するための道筋だとされています。その働きは「識」を目覚めさせることです。

『般若心経』の最後の真言がこちらです。“Gate gate Pāragate Pārasaṃgate’ Bodhi svāhā”

この言葉はサンスクリット語で、以下がその訳です。「出発しよう、出発しよう、上を目指して出発しよう、悟りの境地を目指そう。たどり着けますように」。また別の訳が、「行ってしまった、行ってしまった、途方もなく遠くへ行ってしまった。丸見えになって、見捨てられてしまった。私は目覚める。救いをください!」というものです。

この真言は私たちをサンスクリット語の”gate“という言葉へと関心を向けさせてくれます。これはまさに「空」に触れた言葉ですが、それは自分の個人的な飛行機上での話であり、「無我」という概念と等しい意味を持っています。「出発する」あるいは「行ってしまう」ものは「我」なのです。

したがって、この真言は「我」からの逸脱を叫んでいるということになります。この「我」は過ちや苦しみの根源と考えられており、ここではエゴの同義語として使われています。最終目標は、「空」が出現できるようにエゴを消散させることです

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『般若心経』の教え

『般若心経』は非常に複雑な書物であるとはいえ、その根本では悟りや救いへの筋道を指し示してくれています。これは「空」を見つけ出すためにエゴを捨て去り、そうすることで真実をより深く感じ取り、理解しようとすることで成り立ちます。

言葉を換えると、自らの目や耳、手、そして頭を使って進もうとする人は皆、真実を知ったり理解することはできない運命だということです。同様に、自らを自分自身の感覚や考え方から解き放とうとする人々は皆、真実の中に溶け込み、知能によってではなく超越体験として真実を理解することができます。

悟りの境地こそまさにその状態であり、そこでは自身の感覚や頭脳といった制約のある手段によって世界を知覚するのを止めることとなります。悟りとは完全な理解と同義であり、「執着を離れた状態」および「悲」という二つの偉大な仏教的美徳をもたらしてくれます。


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  • López-Gay, J. (1992). El” Sutra del Corazón” y el” In-Sistencialismo”. Oriente-Occidente, 10(1-2), 17-26.


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