いい人が何もしないから、そこに「悪」は存在する

2018年5月24日 in 心理学 0 シェア済み
鏡に立つメデューサ

世の中には「優しさ」という旗を掲げ、自身の利他主義を誇りに思う人たちがいます。しかし、彼らの言葉は、日々の悪を目の当たりにして何もしないとき、空っぽであることが分かります。彼らから発せられる言葉の無効さは、彼らが立ち去り口を閉じ、不公平さや侮辱に直面しても無言でいる時に明らかになります。

「悪」の古典の1つは、特定のグループ全体を標的にする大量虐殺です。私たちは「悪」と聞くと、暴力的な人生を思い浮かべるでしょう。私たちは、神の名のもとに殺害する拷問人やテロリストを想像するでしょう。しかしここで明確にしておきますが、いつどんな時でも、私たちの周りで邪悪なこと・行為が起こっているのです。それらは私たちの家族や私たちに近しい人たちの間でも起こります。

世界は生きるのに危険な場所です。悪い人がいるからではなく、悪い人について何もしない人々がいるためです。

アルバート・アインシュタイン

さらに、私たちのほとんどは、TVやソーシャルメディアで毎日見る戦争や暴力的な状況から誰かを救う機会がありません。しかし、ここで私たちがしなければならないことは、画面から知り得た、人間性の感覚に違反するものの目撃者として証人になることです。

そして、私たちはこれらの行為に対して、静かな共犯者でもあるのです。何もせずに、他の方を見て、感じた不快感を呑み込み、別の何かに注意を向けることによって、私たちはこの行為に参加しています。

例えば「いじめ」のような状況や、壁を通じて隣人が叫んでいるのを聞きます。その部屋では、子供たちは泣いていて、配偶者は虐待されています。また、ペットに暴力を振るう隣人、(いじめられている)子供を学校に連れて行くときの母親、従業員に対して屈辱を与える上司などの状況です。

「悪」は多くの顔、形を持ち、そしてその力を拡大する能力を持っています。そして「悪」が生き残る理由は、「善良な人たち」がそれを止めるために何もしないからです。

目の中にいる女性と涙を拭く男性

「悪」の起源と耐久力

アーサー・コナン・ドイルは、彼の著書でシャーロック・ホームズがモリアーティ教授と対峙したとき、非常に面白い言葉を使いました。彼は、モリアーティ教授は「道徳的狂気」に苦しんでいると言いました。何気なく使われたこの表現は実際に、私たちの多くが持っている考えを要約しています。その考えはつまり、病気を抱える人や、何らかの心理的障害を持つ人々だけが「悪」を行使できるということです。

「病理学」というレッテルを貼ることで、私たちは、非論理的で不可解な行動に何らかの意味を見出すのかもしれません。それに対して、がっかりするかもしれませんが、病気や精神異常と必ずしも関係があるとは限りません。実際に、恐ろしい事件のほとんどは、反社会的人格障害でも病気でもないのです。

時々、普通の人が何か悪いことをするのは、そのように彼らが育てられてきたからです。それらはもしかしたら問題のあった幼年期から学んだ習慣なのかもしれません。あるいは、自分の衝動や外的要因に流されてしまう、感情のコントロールが乏しい人です。さらに、私たちの環境と状況が、私たちを「悪」に向かって引きずっているように感じる時もあります。

アルバート・エリス自身は、邪悪な「エッセンス」や悪い遺伝子は存在しない、あるいは少なくとも極めてまれであると言いました。つまり、一定条件が目の前に与えられれば、私たちはすべて「悪」になる可能性があるということです。

青い目と枝

なぜ不公平に直面しても黙っているのか

この記事のタイトルに戻りましょう。「悪」が勝ち残る理由の1つは、善良な人が何もしないと考えられるからです。しかし、なぜでしょう?なぜ私たちは行動しないのでしょうか?私たちが不動を貫くのはなぜでしょう?私たちは真実にしっかりと目を向けていますか?「悪」が起こっていても目をそらしていませんか?いくつかの基本的な例を見てみましょう。

  • 第1の理由は簡単です。私たちが見ているものは、私たちとは何の関係もないことだと自分自身に言い聞かせているからです。私たちに責任はなく、私たちがそれをやったわけでもなく、苦しんでいる人は私たちのグループの一員ではない、というのです。感情的関与の欠如は、間違いなく、私たちの不動の主な理由の一つです。
  • 第2の側面は、平和を保とうとする意識に関するものです。たとえば、他の生徒に暴力行為をしているのを目撃した十代の若者は、何も言わずに静かに留まることを選ぶかもしれません。この行為は、バランスを台無しにするかもしれないという恐れによって引き起こされます。この若者は自分の立場を危険にさらすことを恐れているのかもしれません。被害者を守ることは自分を危険に巻き込むかもしれない。そこでこの若者は自分の立場を失う危険にさらされてしまい、おそらく自分自身の恐れの餌食になってしまっているのです。

私たちはそれが簡単ではないことを知っています。特に、自分は何かを失い、他人が何かを得るような状況ではです。それにもかかわらず、私たちは可能な限り関わるべきなのです。私たちは、助けが必要な人を守る新しい方法を模索する必要があります。哲学者のエドモンド・バークが言うように、正義とは人々が不公平に対抗するための努力をしている時にのみ存在します。

「悪」に目を向けることの重要性

この記事の中で既に述べましたが、もう一度言います。「悪」は様々な形と大きさで表れます。それは捉えがたいことでもあり、また多くの言葉で表されます。特別扱い、攻撃的な言葉、差別、拒絶、不当な行為…

寛容は「悪」に適用されると犯罪になります。

– トーマスマン –

「悪」を探して苦しむために外出するという意味ではありません。 それよりもシンプルで、基本的で、とても役立つものです。 私たちがしなければならないことは、私たちの目を開いて、私たちの目の前で起こっていることに敏感であることです。 毎日、私たち自身の周辺でそうあるべきです。 私たちは皆、不公平を止める責任があり、このためには自宅から始める以上に良い場所はありません。

石に描かれた鳥

モラルのある生活を保つことは私たちの日々の義務です。 それは私たちが何かをする決心をしたときです。 犯罪、虐待、侵略、そして不正を非難するのです。 本当の意味での「優しさ」の旗を掲げましょう。 「良いこと」をあなたの本当の声にしましょう。

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