謙虚さと恥の境
謙虚さについては、議論の的になりがちです。謙虚であることはポジティブだと考える人がいます。社会的に自分を守り、境界線を引くことは必要だというのです。一方で、恥ずかしさや抑圧と関係すると考える人がいます。利点よりも欠点のほうが大きいという考えもあるということです。では、謙虚さと恥の境はどこにあるのでしょうか?
謙虚さは人々の中にもはやなくなってしまい、戻ってきたらよいのにと嘆く人は多くいます。また、謙虚さからの解放は、様々な経験で満たされた人生を進めなくしていた重荷を取り払ったかのようだと感じる人もいます。
謙虚さは人にもたらされた宗教だと考える専門家がいます。これは創世記の聖書に初めて登場しています。アダムとイブは初めて神に背いたときに裸であることに恥を感じました。それから、裸や性にまつわる謙虚さについて書かれた本が多く出されています。
謙虚さと宗教
謙虚さは宗教と結びつけられることが多々あります。性的接触や自分を性的にどう描くかとも直接結びつけられます。キリスト教神学者は無恥をとがめ、信者のほとんどは謙虚さを美徳だとします。イスラム教では、謙虚さは非常に大切にされ、女性の象徴のひとつだとされています。
聖書では、父親、母親、兄弟、息子、叔父、義理の娘、義理の家族、義理の兄弟の裸を見ることは非難されます。この教えが、近親相姦を防ぐことが目的であることは明らかです。
15世紀頃、人は性器を「恥ずかしいものだ」とし始めました。さらに、キリスト教会で、節度、思慮、謙遜はすべて謙虚に関わる美徳でポジティブなものであるとされています。
謙虚さと人間性心理学
人間性心理学や複数の哲学者は、謙虚さに関し幅広い視点をもっています。裸に関してのみでなく、一般的な親密性も含まれます。つまり、謙虚であることは、プライベートな親密性に関わるすべてを保護することを意味します。自分の生活の親密性に関わるエリアに、招待していないものを呼び込むことはしません。
同様に、謙虚さは社会的・文化的壁とも関連付けられます。これは教育の結果であり、多くの場合、自分や他者への尊敬と関係します。これらの制限は、人に対し言うことやすることにより簡単に壊されます。
また、プライベートと社会生活の概念の延長でもあります。プライベートに関する側面もあれば、より広い場面に対するものもあります。ひとつのエリアともう一つのエリアを分けておくことは、異なる信頼の度合いを作ることを意味し、健康的でもあります。より自信があれば、謙虚さは低くなり、その反対も言えます。これは個人を守る方法なのです。
謙虚さと恥
これに関する解釈は、精神分析学と人間性心理学はそう離れていません。恥と謙虚さの違いは、はっきりと示されているのです。両者に共通するのは、相手に対する抑圧の感情です。恥においては人はどこかさらされたような、さらけだされたような感覚をもちます。謙虚さにおいては人の親密性が壊されています。
秘密にしておこうと思っていたものが、オープンになると人は恥を感じます。また、人前で話す時に、大事な情報を忘れした場合も恥を感じます。専門家として皆の前に出てきたのに、ほとんど何も知らないと思われているのが明らかで、さらけ出されたような感覚を感じるのです。
一方で謙虚さは、個人的親密性の部分に許可なく誰かが入ってきた場合に生じます。例えば、着替えている時に、誰かに見られていることに気づいた時です。また、知られたくないプライベートな情報を人に聞かれた時も、同じです。
恥と言うより、侮辱されたようです。裸やプライベートに関し誰にでも知られたくないのに人に見られたことで、自分の意志や願いに反することで、感じるのは恥ではなく、憤慨です。
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- Scheler, M., & Ferran, Í. V. (2004). Sobre el pudor y el sentimiento de vergüenza. Sígueme.