モダンダンスの始祖:イサドラ・ダンカンの伝記

2019年10月6日
イサドラ・ダンカンは、才能、反抗、悲劇が組み合わさった人生を送りました。彼女はクラシックバレエ界に革命を起こしただけでなく、周りが自分についてどう考えているかを気にせず、自由に考え表現することに挑戦した女性でもありました。

イサドラ・ダンカンは、これまでの型を破るためにこの世界に生まれてきたような女性の1人でした。

モダンダンスの始祖と言われるイサドラは、芸術の世界で最も魅力的で革命的な性格を持った1人だと言われていますが、彼女の人生と死は、数奇なものでした。

イサドラ・ダンカンの人生はまた、痛みと悲劇によって汚されてしまいました。彼女と出会ったことのある人は皆、彼女を寛大で母性的な女性だと話します。彼女は、自分の体全体を使って自分を表現した芸術家であり、いつも自分の心を正直に言葉にする女性でした。

彼女のダンススタイルは感情に満ちていました。彼女はあえてクラシックバレエダンスの硬直さに反発し、より純粋な動きを表現しました。

彼女は自伝において、海の波を見ながらダンスに恋をしたと語っています。彼女の動きは自由で常に流れるようであり、波が彼女の体を揺らすかのように大きな感情表現を行いました。

モダンダンス 始祖 イサドラ・ダンカン

人生の初期

彼女の本名は、アンジェラ・イサドラ・ダンカンで、1877年5月27日にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれました。

父親のジョセフ・チャールズは融資担当であるローン・オフィサーで、母親のメアリー・イサドラ・グレイは音楽教師でした。

4人の兄弟の末っ子であったイサドラでしたが、幼い頃に父が家族の元を去りました。家族は経済的に非常に厳しい状況におかれたため、イサドラの母親はピアノレッスンを始め、後にはダンススクールを設立しました。

2人の兄たちは、母親の学校でダンスのインストラクターとして働いていました。イサドラもわずか10歳のとき、兄たちと一緒にダンススクールで働き始め、幼い子供たちにダンスを教えるために勉強を辞めることにしました。

その後、家族はシカゴに移り、イサドラはクラシックダンスを学びました。残念なことに火災が起きて家を失ったので、今度はニューヨークに引っ越しました。ニューヨークでは、劇場を経営する会社で仕事を見つけることができました。

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ヨーロッパ時代のイサドラ・ダンカン

ヨーロッパのクラシック音楽に憧れていたイサドラは、ヨーロッパへと旅立ちました。当時は、ヨーロッパからアメリカへの移民が多かったのですが、イサドラは、家族にも一緒に行こうと誘いました。家族はロンドンに定住した後、パリへと引っ越してそこに定住しました。

イサドラは、ヨーロッパの素晴らしい数々の博物館を頻繁に訪れましたが、その中でも特にギリシャの芸術を鑑賞することに多くの時間を費やしました。彼女は、博物館で見た彫刻の姿勢のいくつかを自分のダンスに取り入れました。

これまでの自分の経験に、博物館で養った観察力を組み合わせて、自分独自のスタイルを作り出したのです。

これはダンスの歴史を大きく変えました。

イサドラは、ギリシャ風のガウンを着て裸足で舞台に上がり始めました。髪はおろし、ダンス用に作られていない曲のリズムに合わせて踊りました。

すべての動きは、パフォーマンス中に即興で動きを思いついたもので、クラシックダンスで使われるチュチュやベール、そして特有の硬い動きは取り入れませんでした。

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革命的な活動

イサドラが活動を始めた頃は、多くの批判を受けましたが、すぐに専門家や批評家に賞賛を浴びるようになります。彼女は、ダンスの世界での基準を打ち破っているだけでなく、プライベートでもスキャンダルの多い女性でした。

多くの問題に悩まされていながら様々な困難を払いのけて、二人の息子のシングルマザーになりました。

彼女には多くの恋人がいましたが、その中にはかなりの有名人もいました。また彼女には同性愛者だという噂もありましたが、それを証明する証拠はありませんでした。

当時の彼女は、とてもスキャンダラスな性格で、時には着ていたガウンを脱いで胸を露出させて、聴衆を挑発することがありました。

またイサドラは、アルゼンチンのバーで国歌を踊るという無謀な行動を行いました。お金には無頓着で、ある時などは、着ていた毛皮と宝石でホテル代を払ったことがあると言われています。

モダンダンス イサドラ・ダンカン

イサドラ・ダンカンの悲劇の結末

1913年に、彼女の人生で最も辛い出来事が起こりました。まだかなり若かった彼女の2人の息子が、自動車事故でなくなったのです。

この悲劇のような事故を克服するのに何年もかかりました…が、もしかしたら結局完全に克服はできなかったのかもしれません。

イサドラ・ダンカンは、ロシア革命をとても賞賛していたため、レーニンは彼女をロシアに住まわせ、彼女の追い求める芸術を続けるように誘いました。

ここで結婚相手となる詩人のセルゲイ・イェセニンと出会いましたが、エセニンがアルコール依存症だったため、結婚生活は長く続きませんでした。エセニンはその後精神病院へと送られましたが、そこで自殺しました。

1927年9月14日、イサドラ・ダンカンは亡くなりました。

首を覆う長いスカーフを巻いていた彼女は、車に乗った時にこの長いスカーフが車輪の1つに絡まってしまったのです。

彼女の最後の言葉は「Je vaisàl’amour」(「私は恋に落ちます」)であり、その日に出かける予定だったデートを指していると言われています。

ダンサーの才能に溢れていたイサドラ・ダンカンは、歴史に名を残した有名な人物であるだけでなく、ダンスの世界において、社会が女性や芸術家に期待する基準を打ち破った人物の1人と呼ぶことができます。

  • Duncan, I. (2003). El arte de la danza y otros escritos (Vol. 19). Ediciones Akal.