ジャーナリスト、オリアーナ・ファラーチの人生

オリアーナ・ファラーチは勇敢で才能ある女性で、彼女の言葉はあらゆる世代の心をつかみました。ジャーナリズムの歴史を変えた、20世紀で最も影響力のあるジャーナリストの一人です。
ジャーナリスト、オリアーナ・ファラーチの人生
Gema Sánchez Cuevas

によって書かれ、確認されています。 心理学者 Gema Sánchez Cuevas.

最後の更新: 12 10月, 2021

オリアーナ・ファラーチは、その作品が世界で最もよく読まれ、称賛されたジャーナリストの一人です。12冊の著書は20カ国語以上に翻訳され、全世界で2000万冊以上売れたと推定されています

ファラーチはインタビューが有名で、彼女のように有名人や権力者の隠された面を表に出すことができた人は他にいないでしょう。

オリアーナ・ファラーチは第四権力のモデルの一人でした。彼女は一定の原則に従えばジャーナリズムが物事を変えることが可能なのだということを示したのです。

20世紀大きな影響力を持った人物が複数、彼女により記録に残されています。皆が彼女を嫌っていたという噂もありますが、これはファラーチにとっては褒め言葉でした。

ジャーナリストの仕事に加え、彼女は作家としても活躍しました。直接的で感受性豊か、面白みのあるスタイルであらゆる世代を魅了しました。イスラムの世界における女性の弾圧からモハメド・アリ、ベトナム戦争、月旅行まで、その作品を通してあらゆる問題に取り組みました。

実際、オリアーナ・ファラーチの最も有名な作品の一つ、月旅行の話はアポロ12号の時代に作られたものです。この月旅行の機長であったピート・コンラッドは、月面着陸に際し何と言うべきか彼女にアドバイスを求めたとも言われています。そこでファラーチは、コンラッドの身長が低かったことから、「ニールにとっては小さな一歩だったが、私にとっては大きな一歩だった」と言うようアドバイスしたといいます。

オリアーナ・ファラーチ

 

パルチザンであったオリアーナ・ファラーチ

1929年6月29日、オリアーナ・ファラーチはイタリアのフィレンツェで誕生しました。母親は非常に個性が強かったと言われています。また、父親エドアルドは貧しい大工で、マルセル・プルーストの作品を愛し、過激な左翼派でした。オリアーナは第一子でしたが、父親は男の子を望んでいました。そのため、オリアーナを男の子のように育てたのです。

射撃、ハンティング、辛い状況にも文句を言わず耐えることなどを彼女に教えたのは父親です。ファシズムがイタリアを抑えると、エドアルドと当時13歳だった彼女は抵抗運動に参加します。フィレンツェが占領されると、父親はナチスによって逮捕され拷問を受けました。その間、オリアーナは抵抗運動への伝書使の役割をしました。

戦争が終わると、イタリアの軍隊は彼女の勇気に名誉勲章を与えます。当時、オリアーナ・ファラーチはまだ14歳でした。優秀な生徒だったので医学奨学金を受けましたが、別の道を選び、20歳になる前にはジャーナリストになっていました。

 

目撃者として

ファラーチは、複数の小さな新聞社に勤めました。50年代終わりには雑誌『L’Europeo』の記事を書き始めます。そして、ショーについて書くためアメリカへと送られます。この経験から処女作『Hollywood’s Seven Deadly Sins(ハリウッドの7つの大罪)』が誕生しました。また、この旅が終わると、オリアーナはアメリカこそ自分の住む国だと感じ、1960年代初めニューヨークに移りました。

その後アジアを旅し、著書『Useless Sex(使えない性) 』や『Penelope at War(戦時中のペネロペ)』などが誕生しました。続けてNASAの宇宙プロジェクトに関する本や連載記事を書いています。

1967年、戦争特派員となり、ベトナム戦争の取材を行います。これに関し様々な年代記を書き、有名な一冊『Nothing, and So Be It(何もない、それならそれで)』 が誕生しました。

彼女は世界的に有名になり、社会的抗議運動を取材するようになります。その一つ、メキシコシティの三文化広場であった虐殺事件では、複数の銃弾を受けています。死亡したと思われた彼女は、遺体安置所に運ばれました。しかし一人の役員が彼女が生きていることに気づき、病院へと送られることとなったのです。

オリアーナ・ファラーチ

 

伝説の女性

この経験の後、オリアーナ・ファラーチのインタビュー時代が始まります。当時、世界的に最も権力があった人物と対面しています。中でも忘れられないものの一つが、ルーホッラー・ホメイニーとの対談です。ファラーチは、彼の女性に対する宗教的扱いに疑問を持ち、着用を強いられていたチャドルをホメイニーの前で取りました。このインタビューの多くが著書『Interview with History(歴史との対談)』に記録されています。

1973年、インタビューの一環でアレクサンドロス・パナグリスに出会いました。彼は独裁政権に抵抗したギリシャの英雄です。2人は恋に落ちましたが、3年後彼は亡くななってしまいます。これは彼女にとって非常に大きな衝撃で、彼に関する本『A Man (ある男)』(1979)を出しています。彼女の成功はその後も続きましたが、数年後ファラーチはニューヨークの自宅に閉じこもるようになってしまいます。

その後彼女は肺がんと診断され、9.11事件がありました。この出来事の後イスラムに反する過激な記事をいくつも書き、3つの政府から、外国人嫌悪で起訴されました。2006年、故郷で死にたいという思いからイタリアのフィレンツェに移ることを決意します。その10日後の9月15日、オリアーナ・ファラーチは非常に優れたジャーナリストのレガシーを残し、亡くなりました。


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  • Hernández González, M. B. Zangrilli, Franco. 2013. Oriana Fallaci e così sia, uno scrittore postmoderno. Pisa: Felice Editore.


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